短編・連作小説 寄り道

※この作品は「川嶋夏希」を主人公にした連作短編シリーズのひとつです。
単話からでもお楽しみいただけます。

【川嶋 夏希 第2話 寄り道】

「……川嶋、これ追加でよろしく」

視界が一瞬で文字の洪水に変わった。
パソコンの画面も、机の上の書類の山も、私を追い詰めるように積み重なっていく。
キーボードを打つ手が震える。間に合わない、間に合わない……。

「すみません……」

小さな声は、誰にも届かない。
上司の顔が曖昧に滲む。書類の山が、さらに高く積み上がって――

はっとして目を開けた。

まだ夜明け前の薄暗い部屋。
夢、か。

「久しぶりに見たな……」

ベッドの中で小さくつぶやく。
もう辞めた会社の、データ入力の仕事。
当時の焦りや、人間関係のしんどさが、急に押し寄せてきた。
心臓がまだ、少し速い。

目覚まし時計を見たら、まだ起きる予定の時間より早かった。
二度寝は……できそうにない。
そのままベッドから抜け出した。

歯を磨いて、顔を洗う。
白湯を飲んで、体を少しずつ目覚めさせる。

簡単な朝ごはんを作りながら思った。
今の私はあの頃とは違う。

味噌汁を温め、冷蔵庫の残りものも温める。
テレビをつけながらご飯を食べる。

身支度を整えると、時計はまだ出発の10分前を指していた。

「あそこに寄ろうかな」

玄関で小さくつぶやき、5分早く家を出た。

暑い。
セミの鳴き声がする。

通勤路の、いつもと違う道を曲がる。そこにある神社。
境内までは少し距離があるので、私は鳥居の方角に目を向け、足を止めて心の中で挨拶した。

「おはようございます、いってきます」

そう声に出して言うだけで、少し背筋が伸びる。
誰もいない道に響く自分の声が、妙に心地よかった。

駅に向かって歩きながら、ふと、今朝の夢のことを思い返した。

「……うん、大丈夫」

心の中で答える。
夢の内容を引きずる必要はない。
むしろ、こうやって早く起きられたことが、ちょっと得した気分だった。

駅前で信号待ちをしながら、大きく深呼吸する。
昨日より少しだけ早く始まった一日。
ほんの少しの余裕が、こんなにも気持ちを軽くしてくれるんだな、と思う。

「よし、今日も頑張ろう」

その言葉を心の中でつぶやきながら、私は電車に乗り込んだ。

あとがき

今日は、いつもと違う通勤路を歩いてみる。
声には出さないけど、心の中で朝の挨拶をする。

そんな小さなことでも、気持ちが少し整う気がします。
実際、朝の挨拶にはストレスをやわらげる効果があるそうですし、
いつもと違う道を歩くと脳がリフレッシュするという話もあるそうです。

皆さんもよければ試してみてください。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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