三月に入って、ようやく冬の寒さが和らいできた。
今朝は日差しが柔らかい。けれど、駅の階段を上がると、ビル風がまだツンと冷たくて、少しだけ首筋をすぼめる。
朝と夜の空気は、春が来たと言い切るには、まだ少し早いのかもしれない。
職場のホビーショップに着き、開店準備を進める。
「川嶋さん、おはようございます」
水谷さんの、いつもの明るい声が響いた。
「水谷さん、おはようございます。今日もよろしくお願いします」
「よろしくねぇ。あとこれ、差し入れ。昨日の夜、久しぶりにクッキー焼いたから」
そう言って水谷さんは鞄から、小さな透明のラッピング袋を取り出した。 「わぁ、可愛い。お花のクッキーですね」 受け取ると、五枚の花びらをかたどった素朴な形のクッキーだった。その中央には、琥珀色のように透き通った、黄色いゼリーのようなものがちょんと乗っている。
「少しだけ、開けてみてもいいですか?」
「ええ、もちろん」
シールを剥がして袋を広げると、ふわっと甘い匂いが立ち上がった。焼き立ての小麦粉と、バターの香ばしい匂い。
お菓子屋さんの前を通ったときのような、甘い香りだ。
「これ、真ん中の黄色いの、綺麗ですね」
「それね、梅ジャムなの。今、ちょうど梅が見頃でしょう?
今日の仕事が終わったら友だちと『梅まつり』に行く約束をしてるから、その時に渡そうと思って。梅の花のつもりで、真ん中に梅ジャムチップを乗せてみたのよ」
「これ、梅ジャムなんですね。今日は暖かいし、楽しめそうでいいですね」
「そうなの。今はまだ少し寒いけど、お昼からは暖かくなるみたいでよかったわ」
水谷さんは嬉しそうに笑って、開店準備に戻っていった。
お店がオープンし、私たちはいつも通りの業務をこなす。
時計の針が十三時近くなった頃、杉山さんが出勤して挨拶をする。
「川嶋さん、水谷さん、おはようございます」
「あ、杉山さん、おはようございます」
「杉山くん、おはようございます。梅ジャム大丈夫そうだったら、クッキーがあるから後で食べてね」
「あれ梅ジャムだったんですね。梅、好きなので後でいただきます。いつもありがとうございます」
「いえいえ、梅好きならよかったわ」
午前業務の引き継ぎを済ませ、私たちは交代の時間になった。
「じゃあ杉山くん、あとはよろしくね」
「はい、お二人ともお疲れ様でした。水谷さん、梅まつり楽しんできてください」
「ありがとう」
「では、よろしくお願いします」
そして私と水谷さんは、同時にフロアからバックヤードへ抜けた。
帰り支度をしている水谷さんの横で、私はクッキーの袋を開けた。
バターの優しい甘さが広がり、ゼリー状の梅ジャムが少し甘酸っぱくてクッキーと甘さと合う。
「水谷さん、クッキーすごく美味しいです。梅ジャムとクッキーって、こんなに合うんですね」
「あら、それならよかった。川嶋さんはいつも美味しいって食べてくれるから、作り甲斐があるわぁ。また持ってくるわね」
「でも、毎回は悪いですよ」
「いいのよ、好きで作ってるんだから。それじゃ、行ってくるわね。お疲れ様でした」
「はい、楽しんできてくださいね」
そうして水谷さんは満足そうに微笑んで、軽やかな足取りで店を出ていった。
休憩を終えて売り場に戻り、引き継ぎを済ませる。
売り場が落ち着いた頃、私は杉山さんに先ほどのクッキーの話をした。
「休憩の時に水谷さんのクッキーをいただいたんですけど、梅ジャムとクッキーの甘さが合っていて、すごく美味しかったです」
「そうなんですね。僕も後で食べよう」
「今日は暖かいし、水谷さんも梅祭り楽しめるんじゃないでしょうか」
「そうですね。出勤時は暖かかったから、コートが要らないくらいでしたよ」
「そうなんですか? 朝はまだそこまでじゃなかったですけど……」
「まあ、夜の帰りは寒いから、一応持ってきてはいますけどね」
店内に流れる静かなBGM。私たちはそれぞれの持ち場につき、午後の業務を進めた。
あとがき
梅のシーズンですね。
私は通り道にある、梅の木の近くを通った時の梅の香りがとても好きです。
梅のお菓子や食べ物もあり、この時期はいいですね。
川嶋さんも梅のお菓子が好きそうと思い、今回のお話を書きました。