「私には私のペースがある」
友人と会った日の夜、自宅でふと過去の自分を思い出していた。
私にも、恋愛をしていた時期があったな、と。
社会人になりたての頃。データ入力の仕事をしていた時代。
周りは女性が多くて、昼休みはいつも恋愛や結婚の話題で盛り上がっていた。
私は聞き役で笑っていたけれど、そんな私に「今度合コンあるんだけど、一緒に行こうよ」と声がかかることもあった。
正直、合コンは好きじゃなかった。人見知りの私は初対面の人と話すだけで緊張する。
でも「せっかくだし」「一回くらいは」という同僚たちの言葉に流されて、何度か顔を出した。
ある時、数回会った一人の男性に「付き合ってください」と言われたことがあった。
驚いた。もちろん何度か会っていたからそういうことだとも知っている。でも好意を持たれる事が初めてだった。
私はそのうち飽きて断られるだろうと思っていたから。
相手は穏やかで真面目そうな人だったし、私は断る理由も見つからなかった。
「はい」と答えたのは、好きだからじゃなく、断る勇気がなかったから。
けれど、そのあとがいけなかった。
一緒に出かけても、心がついていかなかった。
笑わなきゃ、楽しそうに見せなきゃと自分に言い聞かせながら過ごすデートは、正直、息苦しかった。
相手は優しくしてくれるのに、私の心は会ううちに少しずつ冷めていった。
「どうして好きになれないんだろう」と自分を責めていた。
そして何度かデートを重ねたとある日。
別れ際に彼がそっと手を取って、自然に顔を近づけてきた時。
唇が触れた瞬間、身体が拒否するように固まってしまった。
別に今までだってキスは何度かしたことはあった。
正直あまり好きではなかったけど、そういうものだと思っていたのかもしれない。
でも、その日は嫌だと思った。
「ごめんなさい…今日は帰ります」
そうして私はそのまま逃げた。
それから数日後、私は彼に電話で謝り、短い交際は終わった。
彼は少しの沈黙のあとで「わかりました」とだけ言った。
責めることも、理由を聞くこともなく。
その静かな返事がかえって胸に刺さって、通話を切ったあと、私はスマホを握りしめたまま泣いてしまった。
どうして私は「ごめんなさい」しか言えなかったんだろう、と。
あの頃は、自分の気持ちをうまく言葉にできなかった。
「悪い人じゃないのに」という思いと、「無理だ」という気持ちがいつもせめぎ合っていた。
気を使いすぎて疲れていたのかもしれない。
その出来事から数年後、周りが結婚していくのを見て焦った私は、周りからの勧めで、婚活を試したこともある。
といっても婚活アプリに登録して、プロフィールを埋めるもの。
何人かとメッセージのやり取りをして実際に会う。
カフェで向かい合って話す。それだけなのに疲れてしまう。
知らない人と話すだけで私にはハードルが高かったし、以前の人を思い出してしまってあの時の気持ちを思い出してしまう。
私は相づちを打ちながら、心のどこかで「違う」と感じてしまった。
会った人、全員をそう感じてしまっていた。
私は心を閉ざしてしまっていたのかもしれない。
「私、変なのかな」
そう悩んだことも何度もあった。
私には付き合うとか結婚は無理なのかもしれない。
それからはデータ入力の仕事にひたすら取り組んでいたことを思い出す。
だけど今なら、少し違う言葉をかけられる。
「合わないものは合わないんだよ。恋愛や結婚だけが全てじゃないし」
一人でいるのは、少し寂しい。
友人の赤ちゃんを抱っこしていると、心の奥がきゅっとする。
私もあんなふうに誰かと人生を重ねられたら……と願う気持ちは、確かにある。
でも今の私は、一人で暮らすこの生活が嫌いなわけじゃない。
好きな時間に起きて、好きなものを食べて、疲れたらすぐ横になれる。
自分のペースを守れる安心感もまた、手放せない。
あの頃は、無理をして「恋愛しなきゃ」「結婚しなきゃ」と背伸びしていた。
けれど今は、経験しておいて良かったなと思っている。
過去の失敗も、苦しかった思いも、今の自分に必要なことだったのだろう。
窓の外に流れる夜景を見ながら、私はひとつ深呼吸をした。
「私には私のペースがある、今はそれで大丈夫」
そう思えるようになっただけでも、あの頃の私より少し前に進めている気がした。
こういう時は、私はお湯を沸かす準備をする。
ティーバッグからお気に入りの紅茶を選んで、カップにゆっくりと注ぐ。
立ち上る湯気とやわらかな香りに包まれると、胸の中に渦巻いていた影が少しずつほどけていく。
温かい紅茶をそっと口に含むと、胸の奥に残っていた重さが静かに溶けていった。