3巻 昔の私へ、今の私より 川嶋夏希シリーズ 「日常編」 1話〜10.5話

あらすじ

明日なんて来なければいい‥‥。

35歳の川嶋夏希は、営業職と派遣社員で鬱病と挫折を経験し、社会の歯車からこぼれ落ちていた。

店長や仲間に支えられ、品物に宿る想いや人との関わりのある仕事に触れる中で、彼女は自分らしい「生きるペース」を取り戻していく。

この物語のテーマは『日常の中で、少し前向きになれること』

一度立ち止まった女性、川嶋夏希が、働く日々を通じて再び歩き出すまでを描く、優しくて力強い再生の物語。

※エピソード0として書かれている過去編、川嶋夏希の日々の日常やホビーショップで働く日常編がございます。

短編・連作小説としてnoteにて投稿していたお話を微修正し、まとめた作品です。マガジンにて、気になるお話からもご覧いただけます。


第1話 カモミールティー

今日も疲れたな。

だけどそれを誰かに言うでもなく、口の中で何度か転がして、飲み込んだ。職場を出て、電車に揺られ、最寄りの駅に着くころには、ぐったりしている。

帰り道のコンビニには寄らなかった。
余計な甘いものを買うと、明日の自分が怒るから。

部屋に帰ってまずするのは、エアコンのスイッチを入れること。

夏の夜は湿気がまとわりつくから。
スイッチ一つで世界が少しやわらかくなるのは、本当にありがたい。

冷蔵庫に残っていた白ごはんと、昨夜の味噌汁。
卵を落として、冷凍しておいた小松菜としめじも入れたら、それなりに見える。
ご飯を食べると、体の中にエネルギーが戻ってきた感じがする。

次にお風呂。

湯船に浸かるほどの余力はなかったから、今日はシャワーだけ。
それでも、ぬるめのお湯を肩に当てたら疲れが取れる気がした。

髪を乾かし、化粧水や乳液をつける。
無心で他のルーティンもこなすうちに、少しずつ思考が整っていく。

そしてここからが、いつもの「ご褒美」の時間。

キッチンの隅に置いた小さな袋。
白地に淡い草花が描かれたラベル。

これは、先日ハーブティー専門店で買ったカモミールのブレンド。

あの日、お店で試飲したとき、あまりの美味しさに購入したものだ。

まるで誰かに、お疲れ様と言われたような、そんな安心感があった。

ポットでお湯を沸かす。
その間に、缶を開けてティーバッグを取り出す。

乾いた花の香りが、ふんわりと鼻に届く。
甘くてやさしい、どこか懐かしいような香り。

沸騰したお湯をカップにゆっくりと注ぐ。

カップを温めたら一度お湯を捨て、もう一度お湯を入れ、ティーバッグも入れる。

まるで花が咲くような香りがふわりと広がっていく。

蒸らし時間は約3分。
そのあいだに、照明を間接灯に切り替える。

部屋の空気が少し静まる。テレビもスマホもオフ。
そして私の好きなBGMをかける。

この時間だけは、情報も誰かの声もいらない。

カモミールには、不安を和らげたり、眠りを助ける作用がある。

それを知っていたわけじゃないけれど、試飲したとき、私は自然とこの空間を欲していたのかもしれない。

湯気の立つティーカップを持つ。

指先から伝わる温かさに、ようやく、今日も終わったなと実感する。

ひとくち、そっと口に含む。

口当たりはやわらかく、じんわりと広がる甘さ。

今日あった職場での出来事が、少しずつ遠ざかる。

疲れたな。

でも今この瞬間は、手のひらの温もりと、この一杯だけを感じていればいい。

ご褒美”って言葉は、少し照れくさいけど、今の私にはこれが一番いいのかもと思ってる。

素の自分に戻るための、時間と香りと、やさしさ。

至福のひととき。

カモミールの香りが、ゆっくりと私を包む。
目を閉じると、深く呼吸ができる。

もう少しこのまま起きていたいけれど、眠くなってきた。

明日のことは、また明日考える。
今夜は、この静かなご褒美の中で、眠りについてもいい。

いい夢見られるといいな。


あとがき

カモミールは、昔から
「眠りのハーブ」と呼ばれてきたそうです。

心を落ち着かせて、眠りを手伝ってくれる、そんな作用があるんだとか。
不安や緊張をやわらげたい夜にも、そっと寄り添ってくれる香りです。

ちなみに、カモミールティーはノンカフェインなので、寝る前にも安心。

ほんのり甘くてやさしい香りが、ふうっと気持ちをゆるめてくれるような気がします。

自分をいたわる時間に、ちょうどいい一杯かもしれませんね。


第2話 寄り道

「……川嶋、これ追加でよろしく」

視界が一瞬で文字の洪水に変わった。

パソコンの画面も、机の上の書類の山も、私を追い詰めるように積み重なっていく。

キーボードを打つ手が震える。

間に合わない、間に合わない……。

「すみません……」

小さな声は、誰にも届かない。

上司の顔が曖昧に滲む。

書類の山が、さらに高く積み上がって――はっとして目を開けた。

まだ夜明け前の薄暗い部屋。
夢、か。

「久しぶりに見たな……」

ベッドの中で小さくつぶやく。

もう辞めた会社の、データ入力の仕事。
当時の焦りや、人間関係のしんどさが、急に押し寄せてきた。

心臓がまだ、少し速い。

目覚まし時計を見たら、まだ起きる予定の時間より早かった。

二度寝は……できそうにない。
そのままベッドから抜け出した。

歯を磨いて、顔を洗う。

白湯を飲んで、体を少しずつ目覚めさせる。
簡単な朝ごはんを作りながら思った。

今の私はあの頃とは違う。

味噌汁を温め、冷蔵庫の残りものも温める。

テレビをつけながらご飯を食べる。

身支度を整えると、時計はまだ出発の10分前を指していた。

「あそこに寄ろうかな」

玄関で小さくつぶやき、5分早く家を出た。

暑い。

セミの鳴き声がする。

通勤路の、いつもと違う道を曲がる。

そこにある神社。

境内までは少し距離があるので、私は鳥居の方角に目を向け、足を止めて心の中で挨拶した。

「おはようございます、いってきます」

そう声に出して言うだけで、少し背筋が伸びる。
誰もいない道に響く自分の声が、妙に心地よかった。

駅に向かって歩きながら、ふと、今朝の夢のことを思い返した。

「……うん、大丈夫」

心の中で答える。

夢の内容を引きずる必要はない。

むしろ、こうやって早く起きられたことが、ちょっと得した気分だった。

駅前で信号待ちをしながら、大きく深呼吸する。

昨日より少しだけ早く始まった一日。

ほんの少しの余裕が、こんなにも気持ちを軽くしてくれるんだな、と思う。

「よし、今日も頑張ろう」

その言葉を心の中でつぶやきながら、私は電車に乗り込んだ。


あとがき

今日は、いつもと違う通勤路を歩いてみる。
声には出さないけど、心の中で朝の挨拶をする。

そんな小さなことでも、気持ちが少し整う気がします。

実際、朝の挨拶にはストレスをやわらげる効果があるそうですし、いつもと違う道を歩くと脳がリフレッシュするという話もあるそうです。

皆さんもよければ試してみてください。


第3話 ありがとう

朝の業務は店長と私の二人から始まった。

夏の日差しがすでに強く、開店前の掃除だけで少し汗ばむ。

店舗はまだ静かで、店長はカウンター奥で事務作業、私はいつも通り店内業務をこなしていた。

お昼近くになり、お腹すいたな……と思っていた頃だった。

「これは……!」

店の奥の棚の方から、小さな声が聞こえた。

自動ドアの音がしてお客さんが入ってきたのは分かっていたが、店内は静かだったので気になり見に行く。

棚の向こうに回ると、背中の丸いおじいさんが箱の商品をじっくりと見ていた。

それは、昔のプラレールの特急列車セットだった。
箱の角は少し色褪せていたが、中身はきれいだ。

「どうかされましたか?」

と私が聞くと、おじいさんは目を細めながら、ゆっくり答えた。

「これ……雷鳥だよ。昔、息子に買ってやったんだ。」

「雷鳥……ですか?」

私は知らない名前を繰り返した。

「そう、特急雷鳥。息子が小さい頃テレビで見て、『あれに乗りたい』って言うもんだからな。ばあさんと三人で大阪まで旅行に行ったんだよ。」

おじいさんの目尻が少し緩む。

私は相槌を打ちながら、静かに耳を傾けた。

「もうばあさんはいないけど……あのときの旅行は、今も目に浮かぶんだよ。」

その後もおじいさんは、思い出したかのようにあの時の旅行の話をしてくれた。

大阪で食べたご飯が美味しかったことや、息子が窓の外を夢中で見ていたこと。

旅館での出来事など。

「これ、もらっていくよ。」

おじいさんはそのプラレールの箱を持ってゆっくりレジへ歩み寄った。

私はレジを打ちながら、

「いいものが見つかって良かったですね」

と伝えた。

「そうだねぇ……話を聞いてくれて、ありがとうね。」

おじいさんは深く頭を下げた。

私は少し驚きながらも、自然と笑みがこぼれた。

「ありがとうございました、またお待ちしております。」

そう言って商品を手渡したとき、おじいさんはとても穏やかな表情をしていた。

自動ドアの音がして、外の夏の光が一瞬差し込んだ。

静かな店内に戻ると、私はさっきまでおじいさんがいた場所を何となく見た。

「……ありがとう、か。」

私は小さくつぶいた。

ただ話を聞いただけ。
でも、そのひと言が思いのほか心に沁みていた。

小さなプラレールコーナーを見つめながら、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。

「こんな日もいいかもね」

足音が聞こえた。
店長が奥から戻ってきたみたいだ。

店長は少し笑っていて、たぶん聞いていたんだろうなと思った。


あとがき

ちょっとした会話の中で「ありがとう」と言われると、なんとなく心があたたかくなりますよね。

ちなみに「ありがとう」という言葉には、自分の心をやさしくする効果があるとも言われています。

口に出すだけでも、少し気持ちが落ち着くのだそうです。

今日は誰かに、そして自分にも。
小さく「ありがとう」を伝えてみるのもいいかもしれません。


第4話 深呼吸の大切さ

午後になり、杉山さんが出勤してきた。

「杉山くん、おはよう。今日は久しぶりに三人体制だね。」

店長が軽い調子で言うと、杉山さんが少し眉をひそめた。

「店長、今日の14時から倉庫の会議室で会議ありますよ。」

「あ、そうだっけ。杉山くん、ありがとう。」

「はぁ……もう少しスケジュール管理ちゃんとしてくださいよ。」

店長は会議資料を探しに、慌ただしく奥へ戻っていった。

「倒産しかけたこの店を立て直した凄い人なのに、性格はあんなだからな。」

杉山さんが小さくつぶやく。

「買取や修理の知識に関してはレジェンドですからね。最初に入ったとき、これも買い取れるんだって驚くことばかりでしたよ。」

私も少しだけ、笑いながら返した。
しばらくして、中年の男性が険しい表情でカウンターにやってきた。

手には、中古のワイヤレスヘッドホン。

「これ、買ってから3か月しか経ってないのに音が出なくなったんだ。最初は動いてたけど、そんなに使ってないんだよ。修理して欲しい。」

「お持ち込みありがとうございます。……レシートを拝見しますね。こちらの商品は中古品で、保証期間は1か月となっておりまして……」

「少ししか使ってないんだぞ。中古だからってこんなすぐ壊れるのはおかしいだろ!」

男性客の声が大きくなる。店内には他のお客様もいる。
杉山さんと目が合い、私は会計をこなしながら様子を見守った。

杉山さんは落ち着いた声で説明を続ける。

「部品の交換や点検も可能ですが、費用はお客様負担になってしまいます。」

「結局また金を払えってことだろ?ひどい店だな!」

杉山さんは一度小さく息を吐き、まっすぐ男性客を見た。

「ご不便をおかけして申し訳ございません。こちらとしても、お客様に安心して使っていただきたいんです。ですので、今回は特例として、店側で点検・修理費用を負担させていただきます。」

男性客の表情が少し和らぐ。

「……そうか。それならいいよ。悪かったね、声を荒げて。」

「いえ、こちらこそご迷惑をおかけしました。数日お時間いただきますが、ご了承くださいませ。」

男性客はそのまま帰っていった。
店内が静かになり、私はほっと息をつく。

他のお客様に

「先ほどはご迷惑をおかけしました」

と伝え、会計を済ませた。

お客さんが帰ったあと、杉山さんがぽつりと言った。

「まあ、このくらいで済んで良かったかな。」

「杉山さん、ありがとうございました。お疲れさまでした。」

そう言い合ったあと、店内には心地よい静けさが戻った。
私は大きく深呼吸をする。

胸の奥に溜まっていた緊張が、ゆっくりと吐き出されていく。
その空気と一緒に、気持ちが少し軽くなった気がした。

杉山さんは文句も言うけれど、やっぱり自分が店長だろと言うだけあって頼りになる。

私ももっとしっかりしないとと、改めて思った。


あとがき

緊張や不安を感じたとき、深呼吸をすると自律神経が整い、気持ちが落ち着くと言われています。

「4秒吸って、4秒止めて、8秒吐く」

このサイクルを一度試すだけでも、呼吸は不思議と楽になるそうです。

私もまだできないことが多いですが、これからはほんの少しでも肩の力を抜ける時間を持ちたいです。


第5話 日記

仕事終わりの電車は、ほどほどに混んでいた。
座席は空いていなかったけれど、立って揺られるのも嫌いではない。
車内のざわめきとアナウンスを聞きながら、バッグからスマホを取り出す。

私は、スマホで日記を書いている。

当日忘れたら次の日に。

書くことがなくたっていい。

たとえば
「今日は一日中家でダラダラしてた」
という日でも、それはそれで残しておきたい。

1日休む事って、実は大事なことだから。
体に余計な負荷をかけないって、ちゃんとした選択だと思う。

書くと気持ちが少し整理されるし、後で読み返したとき
「ああ、そんなことがあったな」って思えるのがいい。

前に、そう教えてくれた人がいた。

「ちゃんとシフト通りに出勤できた、それだけでも十分えらいよ」って。

午前中、おじいさんが来店された。

昔のプラレールを手に取り、小さな声で「これは……」とつぶやいていた。
その目が、どこか遠くを見ているように輝いていたのが印象的だった。
雷鳥に乗って旅行した話。
奥さんと息子さんと一緒に行った大阪の景色。
それらを懐かしむように話してくれた。
「いいものが見つかって良かったですね」と声をかけたら、
「話を聞いてくれてありがとう」と言ってくださった。
あの「ありがとう」は、思っていたよりずっと心に沁みた気がした。


日記

午後は杉山さんと二人での業務だった。
中年の男性客からクレームが入り、店内の空気が少しピリッとした。
私はフォローに回るので精一杯だったけれど、杉山さんが落ち着いて対応してくれたおかげで、なんとか解決できた。
店内のお客様にもきちんと声をかけられたし、最後は杉山さんと
「お疲れさまでした」と声を掛け合えた。
ああやって落ち着いて前に出られる杉山さんは、本当に頼りになる。
文句も言うけれど、現場を支えているのはやっぱりこの人なんだなと改めて思った。
私もあのくらい落ち着いて対応できるように頑張りたいと思った。


車窓の外、夜の街が少しずつ見慣れた景色に変わっていく。
今日のことを書き終えて、スマホのアプリを閉じた。

「今日は無事に一日が終わったな」

心の中でそうつぶやいて、スマホをバッグにしまう。
電車が最寄り駅に到着するアナウンスが流れた。

私はつり革を放し、出口に向かって歩き出す。

「今日はスーパーのお弁当でいいかな。」

小さく声に出してみる。

そういえば最近、デザートを買っていない。
たまには甘いものもいいかもしれない。
そんなことを思ったら、少しだけ口元が緩んだ。


あとがき

日記を書くことは、気持ちを整理するのにとても効果的です。

今日を振り返るだけで、見落としていた小さな嬉しさや「自分なりに頑張れたこと」に気づける時があります。

言葉にして残すことで、自分を見つめ直す時間も必要だなと感じる時もあります。

あの時の私はこんな感じだったのかなど。
皆さんももしよければやってみていただけたら嬉しいです。


第6話 休日の朝

今日は休日。
朝、目が覚めると時計はまだ7時を少し過ぎたところだった。

「……休みなのに、また早く起きちゃった」

二度寝するには微妙な時間。かといって、すぐに動き出すほど元気でもない。

布団の中でぼんやりしながら、スマホを見たり、天井を見たり。
しばらくそうしていたけれど、結局そのまま起き上がることにした。

朝ごはんは、適当でいい。

昨日の夜に炊いて余っていたご飯をレンジで温めて、冷蔵庫にあった卵で卵かけご飯にする。

あとはバナナを一本。

「こういうので、充分なんだよなぁ」

特に誰かに見せるわけでもない、自分のためだけの朝食。
簡単だけど、自分らしくてほっとする。

食べ終わって食器を流しに運ぶと、洗濯機の上に置いたままの洗濯カゴが目に入った。タオルや衣類が思っていたよりも溜まっていた。

「洗濯もしないと」

スイッチを入れて回し始めている間に、掃除機をざっとかける。
ついでに今日はお風呂とトイレの掃除もしてしまおう。

最近、鏡の水垢が気になっていた。
気が向いたときにやらないと、いつまでも放っておいてしまうから。

普段は仕事の後に

「まあいっか」

と先送りにしてしまう家のことも、こうして一つ一つ終わっていくと、なんとなく自分を褒めたくなる。

気がつけば、もうお昼前。
窓の外から聞こえる蝉の声が、日に日に力強くなってきている。

洗濯物を干し終えて、ようやく一息つく。

「さて……お昼どうしようかな」

ソファに座りながら、ふと冷蔵庫を開けて中をのぞく。

「……あ」

パンも麺も残っていないし、卵も今朝で使い切ってしまった。
買い置きしてあった冷凍食品も底をついている。

「あそこに行こうかな」

頭に浮かんだのは、よく行く駅前の小さなカフェ。
スーパーの近くにあって、ランチも手頃で落ち着いた雰囲気が気に入っている。

近場だけど一応軽く化粧をする。
リュックにスマホや財布、そしてエコバッグを入れて玄関に向かう。

外は暑そうだけど、美味しいご飯のために出かけよう。
そう思いながら、部屋の中をゆっくりと歩き出した。


あとがき

家にいる時間を少しずつ整えていくと、不思議と心も整っていく気がします。
大きなことはしなくても、洗濯したり、掃除をしたり、朝ごはんを食べたり。

そういう積み重ねが、今日はちゃんと過ごせたな。と思える日常になるのかもしれません。

誰にも見せない日常だけど、だからこそ大切にしたい。
自分だけの静かな時間。
そんな休日もいいなと思っていただけたなら嬉しいです。


第7話 ちょっとした贅沢

部屋の掃除と洗濯を終えた私は、軽くメイクをしてリュックを背負い、外に出た。

向かうのは、駅前の小さなカフェ。
スーパーのすぐ近くにあって、手頃な価格のランチと落ち着いた雰囲気で気に入っているお店だ。

暑いので日傘を差して歩く。
平日だからか、道ゆく人もどこか穏やかでのんびりしている。
日差しは強いけれど、空の色は高く澄んでいて、夏の風がほんの少し心地よかった。

カフェの扉を開けると、ひんやりした空気と、コーヒーの香ばしい香りに包まれた。
ここのカフェはコーヒーにこだわりのあるお店。

「いらっしゃいませ」

笑顔で迎えてくれるスタッフに会釈し、空いていた窓際の席へ。
店内は静かで、奥の席では主婦らしき女性が二人、話をしていた。

「来週子供が期末テストなのに全然勉強しなくて」

「うちも似たようなものよ、遊んでばっかり」

そんな会話が、少しだけ耳に入ってくる。
私はランチメニューの中から、いつもの日替わりセットを頼んだ。

10分ほどして、

「お待たせしました」

と料理が運ばれてきた。

鶏むね肉のソテーに、ほんのりバジルの香るトマトソースがかかっている。添えられたパンはカリッと焼かれていて、オリーブオイルがほんの少し染み込んでいた。

「おいしそう」

やっぱりこれで1200円は安いな。
淡白なはずの鶏肉がふっくらと柔らかくて、トマトの酸味とよく合っている。
付け合わせのサラダもシャキシャキで、ドレッシングが甘すぎずちょうどいい。
普段は作らない味だからこそ、食べるたびに少し特別な気分になる。

高級料理じゃなくても、いつもよりちょっと贅沢なランチ。
こういう味付け、私じゃできないからな。

食後のアイスコーヒーを飲みながら、私はスマホを取り出した。
SNSでもニュースでもなく、アプリで雑誌を読む。

ちょっとした日帰り旅行、散歩特集とか、暮らしでのおすすめ品紹介など。

「ここ綺麗だな」

「これ美味しそう」

なんて思いながら、指をすべらせてページをめくる。

窓の外をぼんやり見れば、スーツ姿の男性が足早に駅へ向かっていたり、近くの保育園に子どもを迎えに行くらしき母親が手を引いて歩いていたり。

ふと「もし私にも子どもがいたら、私の生活も変わってたのかな」と、自然と結婚のことを思い浮かべてしまう。

コーヒーを飲み終わって、私はゆっくりと席を立った。

レジで会計を済ませながら、店員さんが

「またお待ちしております」

と声をかけてくれる。

「ご馳走様でした。美味しかったです。また来ます。」

そう返して、私はスーパーへ向かった。

今日は特に暑いから冷たい料理もいいかも。
そんなことを考えながら、私は次の目的地へ向かった。


あとがき

今回は、休日にひとりでカフェに行くお話でした。

ただそれだけの出来事なのに、ちょっと贅沢をしたような気持ちになれることがあります。

普段の職場で食べる昼食よりも、少しお値段が高くて、のんびり味わえる時間。

疲れている時、家から出たくないなと思うこともあるけれど、出かけてみれば意外と気分が変わるかもしれません。

そんなきっかけになればと思って書いたお話でした。


第8話 道案内

スーパーで買い物を終えて外に出ると、昼下がりの強い日差しが肌をじりじりと照らしていた。

エコバッグと保冷バッグの中には、天ぷら、納豆、チルド商品、冷凍食品などを詰め込んでいる。

「冷凍物は早く持って帰らないと」

お米とか重いものはネットで頼もう。
そんなことを考えながら歩いていると、声をかけられた。

「すみません、市役所を探しているのですが場所わかりますか?」

振り返ると、帽子を被って杖をついた小柄なお婆さんが、立ってこちらを伺っていた。

少し不安そうな表情をしている。

「市役所なら、ここをまっすぐ歩いて信号を渡って、それから二つ目の角を右に入ると郵便局があってその少し先が市役所です。」

そう答えると、お婆さんの表情が少し明るくなった気がした。

「見つからなくて困っていたの。とても助かったわ。ありがとうね。」

歩き出そうとするお婆さんに私は一声かける。

「今日は特に暑いのでお気をつけて。」

お婆さんは振り返り、にっこり笑った。

「あなたもね。」

たったそれだけのやりとりなのに、胸の奥が少しあたたかくなる。

昔の私なら、知っていても

「すみませんわからなくて。」

とごまかしていたかもしれない。
説明するのが苦手だったし、「お気をつけて」なんて自然に言葉を添える余裕もなかった。

今の職場で人と接する機会が増えたから、きっと少しだけ変われたのだと思う。

派遣で働いていたデータ入力の仕事に比べたら、今の時給は少し下がっている。アルバイトだし、あまり贅沢はできない。

それでも、前みたいに追い詰められることは減ったし、人見知りも改善された気がする。

生活もなんとかできているし、きっと大丈夫。


あとがき

ちょっとした声かけや挨拶で、気持ちがふっと軽くなることがあります。
普段の生活の中で出会う小さな交流は、ほんの一瞬でも記憶に残るものですね。

昔だったら…と考えてしまう時もあるけど、今の川嶋さんなら、これからも少しずつ変わっていけそうな気がします。


第9話 似てる動物

開店前の店内は、とても静かだ。
電気をつけ、パソコンを立ち上げて、少しずつ準備を進める。

10分ほどして、ドアが開いた。

「おはようございます、川嶋さん。今日もよろしくお願いしますね〜」

ふんわりした笑顔とともに、水谷さんが入ってくる。

「おはようございます、水谷さん」

水谷美空さん。私より年上の主婦スタッフだ。
ちょっとユニークだけど優しい人。

出勤日や時間が限られているので、同じシフトだと少し嬉しい。
私は会釈してメールチェックに戻り、引き継ぎ事項を目で追った。

その間に、水谷さんは軽やかに掃除を進めている。
定刻になり、自動ドアのスイッチを入れる。

今日も一日が始まった。

午前の店内は来客も少なく、穏やかな空気が流れていた。
そんな中、売り場整理をしていた、水谷さんがフィギュアを覗き込んでぽつり。

「ねえ、この馬のフィギュア、杉山くんに似てない?」

黒い毛並みの馬。最近の買取品だ。

「えっ……馬ですよね? 似てますか?」

思わず笑うと、水谷さんは真剣な顔。

「真面目そうで、でも目の奥が深そうな感じがそっくりじゃない?」

私は改めてじっと見る。

「……まあ確かに、そう言われると、そうかもしれませんね」

曖昧に返しつつも、妙に納得してしまった。
そんなやり取りの最中、親子連れが来店した。

小学生くらいの男の子とお母さん。

「自由研究の題材を探していて……何かありますか?」

母親が切り出すと、水谷さんが工作セットなどが並ぶ棚へ案内する。

だが、男の子は足を止めて、例の馬のフィギュアをじっと見ていた。

「お馬さん、好きなの?」

水谷さんが声をかけると、男の子はこくりと頷く。

「種類を調べたり写真を貼ったりすれば、立派な研究になるかもしれないわね。うちの子も昔、図鑑を使ってまとめたことがあるのよ。まあ、馬じゃないけど」

中古の動物図鑑も勧めると、男の子の目がきらりと輝いた。
その後、親子は馬のフィギュアと図鑑を一緒に購入。

「ありがとうございました、また来てね〜」

と水谷さん。

お見送りのとき、男の子はとても嬉しそうに笑っていた。

私は心の中で「やっぱり水谷さんらしいな」と思いつつ、買取業務に戻った。

「馬って、自由研究に向いてるんですね」

「馬好きな子は意外と多いのかもね。やっぱり杉山くんだったわ、あの馬。真面目で、奥が深い感じ」

そうですか……?と思いつつ、ちょっと笑ってしまう。

時計を見ると、そろそろお昼。
そのとき、ドアが開いた。

「おはよう、今日も暑いな」

額の汗を拭いながら店長が現れる。

「おはようございます、店長。……もうお昼なんですねぇ。じゃあ私はこれで帰りますね。お疲れ様でした」

水谷さんが笑顔で帰っていく。

「お疲れさまでした」

私は手を止めて見送った。
ほんわかした空気の余韻が残る店内で、また新しい時間が始まる。

あ、店長に似てる動物も聞いておけば良かったな。
そう思いながら、私は業務に戻った。


あとがき

午前中の静かな時間に交わす、ちょっとした雑談。
それは仕事中でも心を和ませてくれる。

川嶋さんにとって、水谷とのやり取りは、少しだけ肩の力が抜けるひとときなのかもしれません。

この二人の空気感は、このまま大事にしていきたいと思います。

※登場した馬のフィギュアは、黒く艶やかな「フリージアン」という品種がモデルです。気になった方は、ぜひ調べてみてください。

そして、水谷さんが例えに出した杉山さんは、第4話「深呼吸の大切さ」に登場しています。


第10話

昼休憩から戻り、私は店内業務へ戻った。

「店長、お疲れ様です」

「川嶋さんもお疲れさま。お昼はちゃんと食べた?」

「はい。今日はコンビニで冷やし中華とヨーグルトにしました」

「お、健康的だね」

「暑いので夏バテしないようにしないと、と思いまして」

「俺は今日、自炊してきたんだよ」

「珍しいですね。何を作ってきたんですか?」

「おにぎり2つだよ」

「……それだけですか?」

「いや、あとはカップラーメン!」

笑顔で胸を張る店長に、思わず突っ込みが出る。

「炭水化物の塊ですね……」

「でもちゃんと作ってきたよ。立派な自炊だろ?」

「まあ……確かに自炊は自炊ですけれど」

私は小さくため息をつきながら、つい口をついて出た。

「私もあまり人のことは言えないですけれど……店長、野菜とか食べてますか? あと、帰ってからお酒ばかりとかじゃないですよね」

店長は頭をかきながら苦笑した。

「うーん……まあ、お酒は好きだしな。帰ったら大体遅いから、晩ごはんはお酒とつまみで終わる」

「それはあまりよくないですね」

「まあ今のところ、それなりに元気だからな〜。俺、あんまり風邪とかひかないんだよ」

呆れ半分、心配半分で店長を見た。大丈夫かな……。
年齢的にも色々気をつけた方がいいのに。
そう思いつつも、自分自身も気をつけなくてはと思った。

「じゃあ俺も休憩に入るね。引き継ぎは――これこれだから、よろしく」

「はい。お疲れさまでした」

「まあ、そんなわけで今日は裏にいるから、なんかあったら呼んで」

「ありがとうございます」

まあ余程のことがない限り呼ばないけど、この後は一人になるので、そういうところはありがたいなと思った。

良い人なんだよなぁ。

そうして私は、また業務へと戻っていった。


あとがき

店長との会話を通して、自分の食生活をふと振り返る。
誰かの生活スタイルを見て、自分も少し気をつけようと思える。

そういう小さなきっかけで食生活をその日は少し変えてみる。
でも続けられるかというと、上手くいくことの方が少ないです。

川嶋さんも、なんとなくそちらのタイプのような気がしました。


10.5話 登場人物紹介とあとがき

登場人物紹介

川嶋 夏希(主人公)
フリーター・一人暮らし。
元は派遣でデータ入力の仕事をしていたが、とあることがきっかけで買取・販売の仕事へ。人見知りだが、以前よりは少しずつ改善。
静かな場所が好き。

吉田店長(46歳)
頼りになるが大らかすぎて大雑把な一面もある。
スタッフからは親しみを込めてツッコまれる存在。

杉山 悠介(31歳/社員)
気さくに見えるが実は繊細。
店長の雑な部分にイライラしつつも、面倒見は良い。

水谷 美空(47歳/主婦)
明るく独特な世界観を持つ。成人した子供がいる。
勤務は基本平日昼のみ。

中村 真(20歳/大学生・新人)
遅番メインで出勤日数は少なめ。
普段は落ち着いているが、好きなことの話になると早口になるオタク気質。

お店について

川嶋さんが働いているのは、ホビーや雑貨、ゲームなどを買い取り・販売するお店。
各地に支店があるけれど、全国展開というよりは、地域に根付いた小規模チェーンの一店舗。
常連さんも多く、アットホームな雰囲気のある職場です。


あとがき

川嶋さんシリーズを始めたときは、正直「3話くらい書ければいいかな」と思っていました。
テーマは「日常の中で、少し前向きになれること」

最初の「カモミールティー」や「寄り道」の回が、そのイメージに近いです。

けれど書き進めるうちに登場人物が増え、気づけば10話を越えていました。川嶋さんの仕事場での日常も自然と増えて、私自身ももっと先の川嶋さんを見たいと思うようになりました。

このシリーズのテーマは「ほっこり」です。
だから大きなシリアス展開は少し抵抗があります。

それでも、もし続けていくなら川嶋さんが前に進むために、少し立ち止まったり悩んだりする場面も描くことになるかもしれません。

どんな展開になるかはまだわかりませんが、これからも地道に更新していけたらと思います。

もしよければ、「私はこんなことが好きです」といったコメントや、いいねで応援していただけるととても励みになります。

最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。