2巻 昔の私へ、今の私より 川嶋夏希シリーズ 「過去編」 後編


過去編9 はじめての接客

「い、いらっしゃいませ」

朝10時、開店直後なのもあってか、人は少なかった。私は大きな声で「いらっしゃいませ」と挨拶することに意識を向けていた。

それから少しして、ブランド品の財布を見たいというお客様から声をかけられた。

「かしこまりました。少々お待ちください」

店長が鍵を取り、手袋をする。財布をケースに入れ、ケースの鍵を閉める。そしてお客様に「こちらへどうぞ」と案内する。

お客様は状態を確認し、しばらく考え込んでいた。

私はまじまじと見るのは失礼だと思い、少し離れたところから様子を見ていた。あとで鍵の開け方を聞かないと、と考えていた。

「この商品2日前に入ったばかりなのでおすすめですよ」

「そうなのね」お値段もそれなりなのでお客様も悩んでいた。悩んだ末買うと決めたようだった。

「では、お会計はこちらで承りますね。袋はよろしいですか?」

「はい」

店長はパソコンのレジを打ち、お会計を済ませる。

お客様はカード払いだったので、カード端末の操作もしていた。私はその操作も見ていた。暗証番号の時だけ、店長から手で合図を受けて後ろを向いた。

「ありがとうございます。領収書はご入用ですか?」

「はい、お願いします。但し書きなどは無しで大丈夫です」

「かしこまりました。」

パソコンを操作し、領収書が出てくる。そこに印を押した。領収書のやり方も見ていた私。店長がこちらを見た。

私はそれに気づき、

「あ、ありがとうございました。またのご来店お待ちしております」

「またお待ちしております」と店長。

「はい」と、お客様は満足そうにお帰りになられた。私は店長に尋ねる。

「領収書も毎回聞くのですか?」

「いや、聞かなくて大丈夫だよ。あの人は常連さんで、いつも『領収書をお願いします』と頼まれるからね。以前話したでしょ? ここは常連さんが多いって。だから失礼のないよう、きちんと挨拶と気配りを忘れずにね。領収書のやり方は、レジを覚えてからで十分だからね」

「はい、わかりました。ありがとうございます」

「じゃあ今の流れを繰り返す感じになるよ。午後になるまでは、この流れを見ててね。操作は午後に教えるから」

少しずつ時間が過ぎていく。最初の緊張は、少しずつ薄れていた。

店内に入ると挨拶をしてくるおばさま。

「この商品は入っていないか」という電話での問い合わせ。

お昼近くになると、買取を希望するお客様もいらっしゃった。

ちょうどその頃、おじいさんが来店され、私が呼ばれた。店長は接客中で、私はものすごく緊張したが、懐かしいものを見つけて、その昔話をしたかっただけだったようだった。私は十五分ほど、その話を聞いていた。

「長いこと話を聞いてくれて、ありがとね」

「いえ、いろいろ聞けて楽しかったです。ありがとうございました」

そう言って、おじいさんはお帰りになられた。

買取をしていた店長のもとに戻ると、親指をぐっと立てていた。あの対応で大丈夫だったということだろうか。

「川嶋さん、いい感じだね。そういうのはとても大事だからね。ちなみに、あのおじいさんも常連さんね。暇なときは、話し相手になってあげてね。時々、息子さんと来て、いろいろ買っていってくれる時もあるから」

「そうなんですね」

「ちょっと買取してるから、店内整理しててね」

「はい」

それからまた時間が過ぎていき、気づけば十三時近くになっていた。ドアノブの回る音が聞こえた。

「おはようございます」

「お、杉山くん、おはよう。こちらが今日から働く川嶋さんです」

「初めまして、杉山と申します。自分は社員で、この時間からの出勤が多いです。時間も被ることが多いと思いますので、よろしくお願いします」

「はい、よろしくお願いします。一生懸命頑張りますので」

「川嶋さん、頑張ってたね。もうすぐ十三時だから、お昼休憩の準備していいよ」

「お昼ご飯は?」

「来る前にコンビニで買ってきましたので、大丈夫です」

「了解。休憩室は、レンジも冷蔵庫もあるし、お湯も沸かせるから、今後好きに使っていいよ」

「はい。午前中、教えていただきありがとうございました。午後も頑張ります」

「うん、よろしくね。ちなみに杉山くんは教えるのがすごく上手いから、午後からレジを教わるといいよ。三人になるから、業務的にも大丈夫だからね」

「店長、またいい加減なこと教えてないでしょうね?」

「いやいや、ちゃんと教えてたよ。ね、川嶋さん」

「はい。丁寧に教えていただきました」

「ほらね。じゃあ、お昼いってらっしゃい」

「はい」

こうして私は、休憩室に向かった。特にトラブルもなく終われたことに少しホッとしていた。午前中の仕事をしていた店長を思い出す。あんなにたくさんの事、私に出来るんだろうかと少し心配になった。

休憩室に入り鞄からパンとおにぎりを取り出して食べる。急にどっと疲れが出た気がした。かといって寝るわけにもいかず、私は休憩中のんびり過ごした。


過去編10 初日の午後勤務

お昼休憩を終えた私は、再び店舗へ戻った。

「お疲れ様です。お昼、いただきました」

店舗で2人に声をかけると、吉田店長が顔を上げた。

「おかえり。しっかり休めたかな?」 「はい、大丈夫です。ありがとうございます」

「それは良かった。じゃあ、入れ替わりで俺も休憩に行ってくるよ。午後は杉山くんに付いて、いろいろ教えてもらってね」

「はい、ありがとうございます」

店長はそう言って、隣にいた杉山さんに声をかけた。「じゃあ杉山くん、あとはよろしくね」

「わかりました。お疲れ様です」

そう言って、店長がバックヤードへと消えていく。残されたのは、私よりも若いだろうけれど、どこか落ち着いた雰囲気の男性、杉山さんだった

「あの、改めまして川嶋です。販売は初めてで、最初はご迷惑をおかけすることもあるかもしれませんが、本日から、よろしくお願いいたします」

私が深々とお辞儀をすると、杉山さんは少し驚いたような顔をしたが、すぐに丁寧に応えてくれた。

「ご丁寧にありがとうございます。杉山です。ここで働き始めてからそれなりに長いので、わからないことは何でも聞いてください。店長の扱いや、あの人の大雑把な部分のフォローにも慣れてますから。店長が適当なことを言ったり、説明を端折ったりしたら僕が修正しますので、何でも聞いてくださいね」

「はい、わかりました」

杉山さんの言葉に、私は思わず小さな苦笑いを漏らしてしまった。でも、店長を心から信頼しているからこそ出る、親しみのこもった軽口にも聞こえた。

お昼過ぎの時間帯、店内はそれなりに賑わっていた。  買取の持ち込みは落ち着いていたけれど、レジへ並ぶお客様や、棚の前で探しものをするお客様が多かった。杉山さんはテキパキと接客をこなしながら、合間を見て私に声をかける。

「あと、これ。簡単なものですが、一応研修の方向けの資料ですので渡しておきますね」

差し出されたのは、ホチキスで止められた数枚のA4サイズの用紙だった。

「ありがとうございます、とても助かります」

「いえいえ。時間がある時に目を通しておいてください。……あ、ただ、お客様がいらっしゃる時はなるべく見ないようにお願いします。お店の印象の問題もありますから」

「はい。わかりました。自宅に帰ってからじっくり読みます」

「初日からそこまで頑張りすぎなくて大丈夫ですよ。しばらくは一人になることもないですし、わからないことがあれば、その都度聞くことが大切です。あとは……そうですね、メモをしっかり取ること。なるべく何度も同じことを聞かなくて済むように心がける。これは基本ですが、一番大切です」

杉山さんは一度言葉を切って、私の目を見て続けた。

「あと質問する時は、周りの状況を見てからお願いします。例えば、僕がお客様と話している時に空気を読まずに割り込むのはNGです。……まあ、川嶋さんはそのあたり、心配なさそうですけど」

「あ、はい。気をつけます」

彼の「大丈夫そうですけど」という一言に、少しだけ安心した。接客が初めてでも、信頼はされているのかもしれないと思ったからだ。

「今日は初日なので、レジ操作は基本的に横で見ているだけでいいです。でも、もし何かあった時のために、一通り流れだけは説明しておきます。……あ、それと。もし体調が悪くなったりしたら、遠慮せずに必ず言ってください。無理をされて急に休まれるのが、店舗的にも一番困りますから」

「せっかく入社されたのですから、ここで長く続けてもらうのが一番だと思っています。無理せず頑張ってください」

「ありがとうございます。頑張ります」

やがて店長が休憩から戻り、スタッフが三人体制になると、杉山さんは本格的に実務を教えてくれた。私はポケットからメモ帳を取り出し、教わったことを必死に書き留めた。レジ操作の基本、バーコードの読み取り方や細かい機能について、そしてお客様対応の最初の手順。私が必死にペンを動かしている間、杉山さんは急かすことなく、書き終えるのを待ってから、次の説明を始めてくれた。その少しの沈黙が、今の私にはとてもありがたかった。

ふと視線を感じて顔を上げると、少し離れた場所で段ボールに入った商品のの査定をしていた吉田店長が、こちらを見ていた。店長は、常連客と親しげに談笑したり買取作業をこなしたりしながらも、時折私たちの様子をうかがっては、満足そうに小さく笑っている。

(吉田さんも、杉山さんも……いい人だな)私はそんなことを思いつつ、夕方までの業務を無事にこなし、ホビーショップでの最初の一日を終えた。


過去編11 帰宅

初日の仕事を終えた私は自宅に着き、ドアを開けた。

「ただいま」

「あ、夏希おかえり」

母が玄関前まで来てくれた。おそらく心配してくれたのだろう。

おかえりと声をかけてくれても「大丈夫だった?」など、そこまで母は話さない。

私が一度過去に鬱だった時、「何でも聞くのやめて!」

と話してから母も父もそこまで詳しくは聞かなくなった。

玄関前まで来たのは私の顔色を見るためだったのかもしれない。

別にご飯の時でもいいのにと思った。

「ご飯出来てるわよ」

「うん、ありがとう」

私は荷物を置き、手洗いうがいを済ませ、リビングへ向かう。

少し休みたかったけど、お腹も空いていた。

食卓には、私の好きな唐揚げと、彩りのいい煮物が並んでいた。

「明日も仕事よね」

母が箸を動かしながら、聞いてきたので私は

「うん。とりあえず、大丈夫そう」

嘘ではない。でも、いつまで続くかなんて自分でも分からない。

「そう、それなら良かったわ」

「うん、ありがとう。ご飯美味しかったよ。ご馳走様でした」

今日のご飯は私が好きなものが多く、いつもより少し豪華な気がした。

母が私に気を遣ってくれていることが伝わってきた。

「お風呂はもう少し待ってね」

「うん、わかった」

会話はそれだけだった。仕事の事は話せなかった。

まだ続く保証もなかったから。

そうして私は食器を片付け洗ってからリビングを後にした。

私は自分の部屋へ戻った。

ドアを閉め、「ふぅ〜」とため息が出た。やっと落ち着けた気がした。

こんなに一日中誰かと話したり、言葉を発したりしたのは久しぶりだった。

いや、今までもそんなに話す方じゃなかったか。

初めてのことばかりだったな。

でも最後までちゃんと働けた。明日も仕事かぁ。

しばらくぼーっとしていたら、部屋の外から母の声がした。

「夏希、お風呂沸いたけど入る?」

「うん、入る」

そうして私はお風呂場へ向かった。

もう少しゆっくりしたかったなとは思ったけど、順番がある。

求職中だった頃と変わらない、いつものことなのに何か違和感を覚えた。

お風呂から出た私はそのままベッドに入りたかったが、テーブルに向かい、今日書いたメモを別のメモにわかりやすくまとめた。

明日は女性の方が教えてくださると言っていた。

少しでも迷惑をかけないようにしないとと思ったから。

メモを書きながら、目が自然に閉じていく。

あ、歯を磨かないと。

部屋を出て歯を磨き、他にも寝る支度を済ませてベッドに入る。

「明日も、頑張れますように」

そんなことを思いながら自然と目が閉じていき、私は眠りについた。


過去編12 自分に自信を持ち、人を頼るということ

二日目。昨日店長から聞いていた、橘さんという女性と一緒にフロアに入った。 橘さんは背が高く、どこか堂々とした佇まいの人で、私は思わず背筋が伸びた。上手く話せるだろうか。昨日とは違う緊張が胸に広がる。

「初めまして、川嶋夏希です。販売は初めてでご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いいたします」

「川嶋さん、よろしくね。店長からいろいろ聞いてるから大丈夫よ。ここ、女性少ないから仲良くしましょう」

「はい、ありがとうございます。よろしくお願いします」

「はーい。あと、そこまで固くならなくて大丈夫よ。もっとフランクに行きましょう」

「はい、よろしくお願いします」

まだ硬いなぁと思われたのか、橘さんは少し笑った。

開店前に、橘さんは自己紹介をしてくれた。

橘さんは、昔から物に興味があって、買取業務はここでのアルバイトから始めたこと。以前は別店舗だったこと。

結婚を機に引っ越してきて、ここは一年くらいかな、と話していた。

そして、三ヶ月後には産休に入るからいなくなってしまうこと。

その事実に、私は凄いなぁと思った。

私とそこまで変わらない年齢なのに、と少し寂しさも感じた。

でも、いざお店がオープンしたらそんなことを考える暇もなかった。

昨日まとめたメモを見せたら、橘さんは驚いていた。

こんなに綺麗にまとめたの!と。

「杉山くん、初日から教えすぎよ。午後にでも文句を言ってやろうかしら」

橘さんは少し冗談混じりに話していた。

私は少しだけ苦笑いしてしまった。

すると橘さんは

「川嶋さんは笑ってる方がいいね」

と不意にそう言われて、私は返答に少し困ってしまった。

今日もレジ操作と声出し、お客様対応をする。 買取も来ていて、橘さんがテキパキとこなしていた。

「買取ってね、正解がないのよ。相場も変わるし、ベテランだからと侮っていると置いていかれる世界だから。私は正解のないところが割と好きでね。

まあ時々文句を言われたりもするけど、そこは仕方ないよね。

だから川嶋さんも、これからクレームとかも来ると思うけど、自分の査定を信じるのよ。

自分で自分の査定を疑っちゃったら、お客様だって困っちゃうでしょ。

ここの仕事は自分に自信を持つことが大事よ。

ちょっと失敗しちゃったなと思っても、やってしまったものは仕方ない。

困ったら周りに聞けばいいのよ。ここはベテラン揃いだからね」

「はい、ありがとうございます。ご迷惑をお掛けしないよう、精一杯頑張ります」

「硬い、硬いよ、川嶋さん! もっと気楽に行こう」

そんなことを話しつつ、業務に戻った。

そして時間が過ぎ午前の休憩時間が近くなった頃、杉山さんが出勤し、私は休憩に入った。


過去編13 職場の居心地と人間関係

そして午後。お昼の時間を終えて、橘さんが休憩に入る。

「あ、川嶋さんおかえり。杉山くんに文句言っておいたからね。初日から教えすぎよって」

「え、いや、そんなことないですよ。杉山さん優しかったですし」

「まあまあ、いいじゃない。それじゃ杉山くん、あとはよろしくね」

「はい、分かりました。お疲れさまです」

「橘さん、お疲れ様です。午後もよろしくお願いします」

「よろしくね」

そう言って橘さんは、軽やかな足取りで休憩室に向かっていった。

すると、杉山さんが少し迷いつつ私に声をかけてくれた。

「橘さんはいつもこんな感じなので、気にしないでください。女性店長みたいな人なので。実際、以前は別店舗で店長をされてましたし」

「そうなんですね」

やっぱり、ただ者ではないと思っていたけれど、本当に仕事ができる人だったんだな。

「疲れてはいないですか? 体調とか」

と、杉山さん。

「あ、はい、大丈夫です。疲れはしましたけど、昨日は早めに寝たので」

「それなら良かったです。まあ、無理しないように」

「は、はい。あ、あの……」

言うか迷ったけど、私は伝えることにした。

「杉山さんには昨日、凄く助けていただきました。ですので、これからもよろしくお願いします」

杉山さんは少し驚いたような目をしていたが、すぐに表情を和らげた。

「はい、よろしくお願いします。では、仕事を始めましょう。僕は送り買取の作業があるので、店内業務をお願いします。まずは……」

杉山さんは今日も丁寧に説明してくれた。

そして私は店内業務を始めた。

しばらくして休憩を終えた橘さんが戻ってきたころ、店内はちょうど落ち着いていた。

その様子を見た橘さんが

「杉山くんにいじめられなかった?」と聞くので、

「はい、優しかったですよ」と伝えると、

「え、優しいの? あの杉山くんが?」

と橘さんは少し意外そうに笑った。

杉山さんは「まったく……」と困ったように苦笑いしていた。

「橘さん、ありがたいことに送りがたくさん来ているので、進めますよ」

「もちろん。さて、たくさん食べたし、やりますか!」

私はその横で商品加工を進めつつ、お客様対応をした。

途中、お金の渡し間違いをしそうになり焦ったが、店を出られる寸前で気づき、追いかけた。お客様が店舗を出る前に気づけて、本当に良かった。

お金の取り扱いは本当に難しい。いつか慣れる時が来るのだろうか、と少し不安になった。

そんな私に、橘さんが「気づけたんだし、まだ二日目なんだから大丈夫よ」と励ましてくれた。

そして私の退勤時間が近づいてきた時、

「川嶋さんもうすぐで退勤時間だから、帰り支度して大丈夫よ」

「橘さん、杉山さん本日もありがとうございました。またよろしくお願いします」

橘さんはやっぱり『硬いなぁ』という顔をしていたが、

「川嶋さん、お疲れ様〜。またよろしくね」

「川嶋さんお疲れ様でした。ゆっくり休んでくださいね」

「はい、ありがとうございます。お疲れ様でした」

こうして私は、二日目の業務を終えて、自宅へ向かう。

鞄の中には、今日書いた殴り書きのメモが入っている。 帰ったらこれを書き直そう。

まだ不安なことも多いけれど、昨日よりは、もう少し頑張れる気がする。そう思った。


過去編14 給料日と少し高めのプリン

そして三日目、休み、四日目と日々は過ぎていき、今日は休みの日。

私はATMでお金を下ろしたあと、少しだけ寄り道をした、帰り道。

気づけば、初勤務から一ヶ月近く経過していた。

この一ヶ月、レジ差異やお客様対応で何度か失敗し、周りに迷惑をかけた。

「向いてないのかな」と思うことも何度かあったけれど、ここで辞めたくないと思って出勤し続けた。

この歳で思うのもあれだけれど、近年、失業保険や傷病手当金で過ごしていた私にとって、お金の重みと有り難みを切実に感じた。

「まるで初めての新入社員みたいだな」

そんなことをふと、思った。

と言っても、正社員でもなくアルバイト。勤務日数も時給も派遣の頃より少なめだから、今後も節約はしなければいけない。

それでも、このお給料が嬉しかった。

販売という新しい環境で、一ヶ月休まず働けたことと、自分が周りの人と話せていることが嬉しかった。

閉じこもっていたところから、少しだけ抜け出せたような気がした。

うつになってから、昔から仲の良かった友達の美香と会うことすら、ずっと躊躇っていた。

この仕事をもう少し続けることができたら、また連絡をしてみたい。そんなことを思った。

初めての販売の仕事を通じて思ったこと。

それは、派遣でのデータ入力の時とも違う。

営業職と同じ「話す仕事」でも、不思議と感覚が違う。 かつてのそれは、数字を勝ち取るための「コミュニケーション」だった。けれど今は、目の前の誰かにそっと手を貸すような感覚というのかな。その小さな違い。

帰りに、駅ビルのスイーツ店で少し高めのプリンを三つ買った。 両親と会話をすると、今でも少しだけ疲れてしまう。けれど、動けなかった私をただ静かに見守ってくれた二人へ、言葉にならないお礼を伝えたかった。

信号を待っていた時、なんとなく空を見上げた。

「いい天気だな」

そんなことを思いつつ、いつもの道を歩いて自宅に着き、ドアを開けた。

「ただいま」


過去編エピローグ 今の私がここで働き続けている理由

私がここで働き始めてから、二年が経過していた。

査定完了の時間になり、お客様がご来店された。

「終わってるかしら?」

「はい、お待たせいたしました。査定の方、終了しております」

彼女が持参したのは、使い込まれた茶色の革製ショルダーバッグと、琥珀色の大きなブローチだった。

かつての私は、相手の目を見るのが怖かった。

相手が何を求めているのか、自分の言葉がどう評価されるのかを考えすぎていた。けれど今、私の視線は目の前のお客様に注がれている。

「こちらのバッグですが、角のスレや内側の染みはどうしてもマイナス査定にはなってしまいます。……ただ、すごく綺麗に使い込まれていますね。大切に、何度も手入れをされていたんだと思います」

女性の肩から、ふっと力が抜けるのが分かった。

「……母が、ずっと使っていたんです。ブランド物だから高いものだと母が言っていたのですが、引っ越すので持って行くのもどうかと思いまして。もうボロボロだから、捨てるくらいならどこかで引き取ってもらえればって。でも、そう言ってもらえると嬉しいです」

「ブローチの方は、ブランド価値も含めて非常に良いものです。二点合わせてこちらの金額になります」

提示した伝票の数字を見て、女性は少し驚いた表情を浮かべた。

「思ったよりも高くて、びっくりしました」

「それなら良かったです。今の相場を考慮しての価格ですので」

杉山さんに叩き込まれた買取業務と、店長の吉田さんがいつも口にする「お客様の未練を、納得に変える」という言葉。

それが今の私の指針になっている。

ご提示いただいた身元確認証のコピーを取り、買い取りの伝票にサインをもらい、査定金額をお渡しする。

「ありがとうございました。……あの、お姉さんに担当してもらえて良かったです」

「こちらこそ、ありがとうございました。また何かありましたらいらしてくださいね」

「はい、ありがとうございます」

深々とお辞儀をして去っていく彼女の背中を見送りながら、私は小さく息を吐いた。

「川嶋さん、今の接客、良かったよ」

いつの間にか背後にいた吉田店長が、茶目っ気たっぷりに親指を立てる。

「ありがとうございます。……でも、今でも買取は少し緊張します」

「それがいいんだよ。慣れすぎて相手の気持ちを忘れるより、ずっといい」

吉田店長は伝票と商品をチラッと見ただけで、それ以上は何も口を出さなかった。

ここで働き始めて二年。

初めての接客で何度も戸惑った。

初めて査定を始めたときは挫けそうで、何度も辞めたくなった。

身元確認証を返し忘れて青ざめ、震える手でお詫びの電話をかけて、店長がお客様のご自宅まで届けに伺うという出来事もあった。

クレーム対応に胃が痛くなることも、数えきれないほどあった。

仕事に慣れない頃、体調を崩しながらも必死に出勤した。

それでも、そんな私を気遣い、サポートしてくれた周りの人たち。

時には厳しく、でも励ましてくれた。

今では、新しく入ったスタッフも含め、私はここの職場の人たちが大好きで、それと同時に、とても尊敬している。

そして、ちょっとした「ありがとう」という言葉を直接聞けるこの環境。

それが、今でもここで働き続けている理由なのかもしれない。

私の勤務終了時間になり、吉田店長に挨拶をして私は退勤した。

以前は、朝が来るのが怖くて、足が動かなくなった日々があった。

社会という大きな歯車からこぼれ落ち、自分には一円の価値もないと絶望した夜があった。

けれど今、私の両足はしっかりと道を歩いている。

不安を抱えながらも、勤務時間や日数は少しずつ増えてきた。

この職場で働き始め、一年半が経過した頃、私は実家を離れることにした。

両親に反対されるかもと思ったが、「何かあればすぐに連絡するのよ」という条件で、一人暮らしを始めた。

そして今では、ちょっとした「前向きになれること」を探しながら、私は一人暮らしをしている。

駅のホームに着き、スマホを見る。

そこには美香から届いた『次はいつ会える?』というメッセージ。

私は電車を待ちながら、返信を打ち込んだ。

『この日なら大丈夫だよ。また仕事の話、聞いてくれる?』

春の風は少し冷たいけれど、胸の奥には、小さな暖かさを感じた。

人間誰しも、毎日悩んだり、失敗して落ち込むことはある。

それでも今の私はもう、あの頃とは違う。

一歩ずつ前に進んで、自分のペースで歩いていきたいと思った。


過去編 あとがき

過去編が完結しました。

思えば、なんとなく「日常以外も書いてみたい」という気持ちから始まった過去編でした。

なぜ、データ入力の仕事から未経験の販売になったのかをテーマにしました。 それを完結まで書き、日常編に繋げるのが過去編の目標でした。

川嶋さんの暗い部分も見せないといけないからどうしようかと、投稿しながらかなり試行錯誤しました。

川嶋さんシリーズの根本的な部分は変えたくなかったので、暗過ぎず、読んでいてほっこりするお話も挟みました。

この過去編を書いた事で、私の中で川嶋さんシリーズを「何のために書こうと思ったのか」が、自分の中で整理出来た気がします。

ここからはあとがきという事で、川嶋さんではなく、少しだけ私の話になります。 ちょっとしたエッセイの様なものです。

私は当時、病院には行きませんでしたが、今思えばうつ病っぽい症状だった時期がありました。

退職して、就活もうまく行かなくて。 やりたい事も見つからなくて。 それこそ、本当に「明日なんて来なければいいのに」と思ったこともありました。

川嶋さんの物語はフィクションですが、私にも実際、そんなきっかけとなるちょっとした出来事がありました。

でも、私はその転職先では上手く行きませんでした。

就活とは別ですが、そのちょっとした出来事がきっかけで友人が出来、遊びに行くことが少し増えました。 その後も数回転職して、今に至ります。

私はまだ、自分に合うところは見つけられていません。 今の自分は、まだマイナス思考な部分も多いです。 それでも、この川嶋さんシリーズのように、少しずつ前を向いて頑張れたら良いなと思っています。

同じような境遇の人、もっと辛い人、なんとなく読んでくださった人、様々な方がいるかと思います。 でも、その「なんとなく」でこうして読んでくださっただけで私は嬉しくなりますし、だからこそ「もう少し続けようかな」と思ったのかもしれません。

日常編は一年を目標にしていますので、もう少し続きます。 その後も続けるかはまだわからないですが、今後とも凪月をよろしくお願いいたします。