6巻 昔の私へ、今の私より 川嶋夏希シリーズ 「日常編」 31話〜40.5話

川嶋さんシリーズまとめ 1巻〜

第31話 仕事始め

のんびりした正月を終えて、仕事始めの朝。
私はいつもより少し早い電車に乗っていた。

今日は一月三日。

車内はまだ空いている。
休日休みの人なら、おそらく四日からの出勤が多いはずだ。
スーツ姿の人もいるけれど、どこかゆっくりした空気が流れていた。

店に着くと、すでにシャッターが開いていた。

「早い。誰だろう」

バックヤードに入ると、杉山さんが先に来ていた。

「おはようございます、川嶋さん。早いですね」

「あ、杉山さん。おはようございます。杉山さんのほうが早いですが」

「まあ、普段は遅番なので、こういう時くらいはね」

今日は時短営業だから、杉山さんも朝から出勤している。
少し遅れて、店長も入ってきた。

「おはよう、川嶋さん、杉山くん。久しぶりの朝出勤なのに早いね。さすがだね」

「当然です。久しぶりだからこそ、通勤時間を考えて早めに出るものですよ」

「眠いんじゃない?」

「まあ、それはそうですけどね」

私はその会話に、少しだけ笑った。確かに杉山さんは普段遅番が多い。
朝から顔を合わせるのは珍しい。

「じゃあ、三人揃ったし、今日は朝礼やろうか」

「はい」

普段はパソコン上で引き継ぎを確認するだけで、きちんとした朝礼をすることはほとんどない。

「今日が新年最初の営業日なので、新年の挨拶をします」

店長が少し照れたように言う。

「えーと……川嶋さん、杉山くん。本年もよろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

三人で頭を下げる。

形式ばった感じがして、少しだけ新鮮だった。

「今日は時短営業です。お客さんの入りは、例年を考えるとそこまで多くないと思う。でも送り買取が大量に来ているから、今日はそっちをメインでお願いしたいと思ってます」

「川嶋さんには店頭業務をメインでお願いして、俺が買取をひたすら進めます」

「はい、わかりました」

「それと、俺はこのあと倉庫で打ち合わせがあって、午後から出張に行く。今日はほぼ二人で店を回してもらうことになります」

「特に問題ないので、大丈夫です」

「それはそれで、なんか俺いらないみたいで嫌だけど」

「そんなことないですよ」

「川嶋さん、新年早々出勤してもらってごめんね。」

「いえ、大丈夫です。特に予定もなかったので」

正月だから特別、という感覚はあまりない。
アルバイトの私に気を遣ってくれたのだろう。実際、少しだけボーナスもいただいている。

出勤日なら働く。それだけだ。

「ありがとう。じゃあ二人とも、今年もよろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

そう言って、店長は倉庫の方へ向かった。

開店準備をしながら、杉山さんがぽつりと聞いてきた。

「川嶋さん、お正月はどうでした?」

「一泊だけ、実家に帰ってました」

「ちゃんと帰省してるんですね」

「近いので。杉山さんは?」

「僕は友人と飲み会でした。実家は遠いので、落ち着いた頃に有給を使って行く予定です」

「いいですね。この時期は交通費もかかりますし」

「長期で実家帰る人多いですからね。お酒は飲みすぎないようには気をつけてますよ」

そうして、私たちは開店準備を進めた。

今朝は、新年らしい青空だった。

「じゃあ、開店しますね」

「はい、お願いします」

午前中ということもあり、来店するお客さんは少なめだった。
福袋を買っていく人、買取の電話相談、孫を連れたお年寄り。

いつもと同じようで、少しだけ違う店内。

休憩を取りながら業務を進め、気がつくと店内の時計は閉店時間間近を指していた。

時間は過ぎるのは早い。

「とりあえず、無事終わりそうですね」

「そうですね」

「福袋も割と好評でしたね」

「中古品の詰め合わせなので、少し心配でしたけど」

「でも中身は見られますし、返品不可とも伝えてますから」

「そうですね」

店長は出張先から直帰するため、閉店作業は私たち二人で行った。
閉店作業をするのは、久しぶりだった。

ある程度終わると、杉山さんが

「ここはやりますので、先に上がって大丈夫ですよ」

と言ってくれた。

「本日もお疲れさまでした。改めまして、今年もよろしくお願いします」

「はい、こちらこそよろしくお願いします」

新年の始まり。
仕事始めは、無事に終わった。

今年も、私に出来ることを一つずつ頑張っていこう。


あとがき

仕事始め。
正月の空気がまだ残っている中で、いつもの場所に戻る感覚。

いつもと違う空気の中、仕事をいつも通りにこなすこと。

それができるようになったこと自体が、実は少しずつ前に進んでいる証なのかもしれません。


第32話 お世話になった橘さん

1月も、もうすぐ終わる。
年末年始の忙しさが、ようやく落ち着いてきた気がする。

お客様が帰り、店内が静かになった頃、ふとそんなことを考えていた時だった。

「いやあ、やっと落ち着いたよ。今年の1月もすごかったねえ」

とカウンターの奥で、店長が大きく伸びをした。

「本当ですね。買取の査定、1月はすごかったですもんね」

「1月の買取の多さは、主に

「福袋」

のお客様だからね。川嶋さんも多めに出勤してくれてありがとね」

「いえいえ、少しでもお役に立てたのなら嬉しいです」

「大助かりだよー」

店長がしみじみと言う。

リサイクルショップの1月は「売る」月なのだ。
お正月、ワクワクして買った福袋。

でも、開けてみたら
「自分には合わなかった」
「サイズが違った」
「持っているものと被った」
……そんなアイテムたちが、ここへ持ち込まれる。

新品同様のタオル、キャラクターのマグカップ、着ていないアウター。
それらの買取作業がようやく落ち着いた。

あとは改めて、高価な品に関しては価格を見直し、製品化していく。

「福袋って、買うときは夢があるんですけどね」

「開けた後、現実に引き戻されるからね。まあ、おかげでうちは商品が潤うわけだけど」

店長が笑ったとき、裏の扉がガチャリと開いた。

「吉田さん、お疲れ様です〜。一応、倉庫の買取の方も落ち着きましたよ」

現れたのは、ダウンベストを着込み、軍手をした大柄な女性だった。

「あ、橘さん。お疲れ様です」

「川嶋さんお疲れ様〜」

橘さんは、柔らかな笑顔でこちらに歩み寄ってきた。

橘さんは以前、このお店で働いていたベテランスタッフで、現在は産休明け。
まだお子さんが小さいので、この繁忙期だけ、買取作業メインのアルバイトとして来てくれていたのだ。

私がこの店に入ったばかりの頃。
右も左もわからず困っていた私に、レジの打ち方からお客様対応まで、優しく教えてくれたのが橘さんだった。

当時の女性スタッフが橘さんだけだったこともあり、とても心強かったのを覚えている。

「倉庫の方、大変でしたよね」

「私はいろんな商品が見られて楽しいけどね。たまに変なのもあるけど。それにしても……」

橘さんが私の方を見た。

「川嶋さん、本当に頼もしくなったわねぇ」

「えっ……そうですか?」

「そうよ。入ったばかりの頃は、お客様に声をかけるのもドキドキしてたじゃない? 今じゃお店の顔って感じがするわ。さっきも休憩時間にこっちを通ったから、実は遠くから見てたのよ」

橘さんの言葉に、少しだけ顔が熱くなる。
自分では、そんなに変われているのかよくわからなかった。

でも、私の「一番ダメだった頃」を知っている橘さんにそう言われると、なんだか認めてもらえたような気がして、素直に嬉しかった。

「その節は、本当にお世話になりました。橘さんがいてくれたから、私、続けられた気がします」

「ふふ、私は何もしてないわよ。川嶋さんが頑張ったからよ。これからも頑張ってね」

「はい! ありがとうございます」

その後、橘さんは

「じゃあ吉田さん、これ伝票ね」

と書類を置いてねと言い、颯爽と戻っていった。
その背中は、昔と変わらず大きくて、とても頼もしかった。

橘さんを見送ったあと、自動ドアが開いた。

入ってきたのは、大学生くらいの男性のお客様だ。
店内を少し見回していた彼は、やがて棚から一つの箱を手に取り、

「お……!」

と小さく声を上げた。

彼がレジに持ってきたのは、あるアニメキャラクターのフィギュア。
数日前、買取したものだった。

「このフィギュア、欲しかったんですよ」

会計の時、男性は本当に嬉しそうにそう言った。
私は商品を丁寧に袋に詰めながら答える。

「そうなのですね。見つかってよかったですね」

「はい、ありがとうございます」

男性は袋を抱えて店を出て行った。

誰かにとっては「不要だったもの」が、ここでは誰かの「ずっと探していたもの」になる。

買取の作業をしていると、今でも思う。

誰かにとっていらないものでも、誰かにとっては欲しかったものなのだ、と。

「さて、と」

私はレジ周りを整える。

橘さんの言葉と、お客様の笑顔。

ふたつの温かさが、1月の終わりの冷たい空気を、やさしく溶かしてくれた気がした。


あとがき

1月は「行く」、2月は「逃げる」、3月は「去る」と言いますが、本当にあっという間に1月が終わろうとしています。

お店にとっては福袋の買取で忙しい時期ですが、それは「モノが循環している」証拠でもあります。

誰かの「いらない」が、誰かの「欲しい」に変わる、リサイクルショップならではの光景かもしれません。

そして今回は、川嶋さんの恩人・橘さんが登場しました。
昔を知る人に褒められるのは、なんだか特別な嬉しさがありますよね。


第33話 男の子との再会

午後の店内はほどよく落ち着いていて、私はレジ近くの商品を整えていた。

そのとき、カラン、と柔らかいドアベルの音が響く。

「いらっしゃいませ」

入ってきたのは、親子連れだった。
小さな男の子が店内をぐるりと見渡す。

あれ、どこかで。
そんな気がしたけれど、私はそのまま手元の作業に戻った。

しばらくして、プラレール棚の前で男の子が真剣な顔で商品を触りながら見ている姿が目に入る。

お母さんは「壊さないでね」と優しく注意していた。

数分後、男の子はようやく一つに絞ったらしく、お母さんと一緒にレジへ向かってこちらへ歩いてきた。

「あっ……」

男の子の小さな声が漏れた。顔がぱっとこちらを向く。
目が合った瞬間、表情がぱあっと明るくなる。

「あ、なつきだ!!」

「え、コウタくん?」

駆け寄りそうになる勢いで足を動かし、でもお店の中だからとぎりぎりで止まった。

その後ろから、お母さんも追いついてくる。

「もう、コウタ。お店の中で走らないって言ったでしょう」

「母さん、この人、この前話したなつきだよ!」

私の姿に気づいたお母さんは少し驚いて、それから深く頭を下げた。

「もしかして……公園で助けて下さったなつきさんですか?この前は本当にありがとうございました。コウタと良平から聞きまして……なんとお礼を言ったらいいか」

「いえ、本当に、偶然会っただけで……」

「コウタがずっと、なつきさんがはやぶさの話してくれたって嬉しそうに言うんです。なるほど、こちらでプラレール扱っていたから詳しかったんですね」

コウタは照れくさそうに、でも少し誇らしげに笑った。

「今日はプラレールを探しに?」

「えっと……はい。中古品をネットで探してたらこのお店が出てきて、コウタがここ行きたい!って言うので」

「でも、なぜか途中からおもちゃが良かったみたいで」

「やっぱりプラレールもう一回見る!」

そう言いながら、コウタは棚へ戻っていった。

けれど、最終的に選んだのはプラレールではなく、棚の端にあったはやぶさの小さなおもちゃだった。

「これもいい?」

お母さんが値段を確認し、

「いいわよ」

と笑う。

帰り際、お母さんが名刺サイズのショップカードを差し出した。

「私は夫と一緒に小さなカフェを経営しておりまして。もしお時間あるときにでも、ぜひいらしてください」

「あ、ありがとうございます」

カードは角が少しだけ丸く、手触りがやわらかい。
きっとお店で手作りしているのだろう。
自宅からなら、思ったより近い場所だった。

お母さんとコウタが手をつないで帰っていくのを見送る。
少し離れた場所にいた店長が、こちらに歩いてきてにこっと笑った。

「いいこと、あったみたいだね」

その笑顔に、なんだかくすぐったくなる。

カフェか。今度、行ってみようかな。


あとがき

小さな偶然が、思ってもいないところでもう一度巡ってきましたね。
川嶋さんにとって、コウタくんとの再会はまさにそんな出来事でした。

あの日、ほんの少し勇気を出して声をかけたこと。
その小さな一歩が、カフェという新しい場所を知るきっかけになり、コウタくんのお母さんとの繋がりにもなりました。

川嶋さんは今日も、自分のペースで少しずつ前へ。
そんな小さな歩みを、これからもそっと見守っていけたらと思います。

※コウタくんのお話は24話迷子の男の子に連載されています


第34話 ひとりのバレンタイン。ふと思い出したその場所へ

2月14日、土曜日。
メディアでも外を歩いても世間はバレンタイン一色。
けれど、そんな日に限って仕事は休みだった。

自分用のチョコレートは事前に奮発して買ったし、職場の皆さんへのチョコレートも渡した。

本来なら、暖かい部屋でのんびり過ごせばいいはずなのに、じっとしていると、心の隙間に冷たい風が吹き込んでくる。

このままで、いいのだろうか。

私はアラフォー。あと数年で40歳になる。
世間が引いた見えない境界線の上に立っているような、そんな年齢。
時々ふと、こうして将来への漠然とした不安に飲み込まれそうになる。
けれど、いつも思うだけで、具体的な行動には移せない自分。

「……よし、外に出おう」

答えの出ない思考を断ち切るように、私はコートを手に取った。

どこか、混んでいない静かな場所へ。
とはいえ、2月14日の土曜日。
混んでいない場所なんて、なかなか思いつかない。

駅に向かい、なんとなくやってきた、いつもの電車に乗る。

いつも降りる駅を通り過ぎ、車窓から流れる見慣れない景色を眺めているうちに、ふとあの駅を思い出した。

吸い寄せられるようにその駅で降り、私は記憶を頼りに小さな公園へと向かった。

空は突き抜けるように晴れているけれど、季節は冬だ。
厚手のコートにマフラーを巻いていても、空気は刺すように冷たい。

「懐かしいな……」

あれから、もう2年以上が経つのか。

そこは、かつて事務職の面接を受けた日、ボロボロの心で立ち寄った、なんの変哲もない小さな公園だった。

バレンタインの日でも、ここにはあまり人がいない。
遊具も少なく、ただベンチがいくつか置かれているだけの場所。

あの日、私はここで「あの人」と出会った。
絶望していた私に言葉をかけてくれた、帽子の人。

もしあの出会いがなかったら、今の職場で働く私も、こうして穏やかに休日を過ごす私も、いなかったのかもしれない。

ふと、空を見上げた。

あの日、必死さと不安で押し潰されそうだった私は、こうしてゆっくり空の色を確かめる余裕すら持てなかった。

今だって、不安が消えたわけじゃない。
でも、あの日抱えていた真っ暗な不安とは、少しだけ色が違う気がする。

鉛筆画の風景から12色の色鉛筆で描いた風景に変わったような。
でも、まだそれ以上の色は増えていないけれど。

冷え切ったベンチに腰を下ろす。
公園に来る前にコンビニで買った袋を開けた。
入っているのは、カステラとゼリー飲料。

あの日、あの人がくれたものと同じ組み合わせ。

「いただきます」

冬の静寂の中で、私はそれをお昼ごはんにした。
ふわっとした甘いカステラを食べつつ、ゼリー飲料を飲む。

美味しい。

けれど、やっぱりあの日ほどではないなと思った。

この二つだけでは喉が渇くので、コンビニで買ったお茶も一緒に飲む。
ふわっとした甘さが、生き返るような感覚を与えてくれたあの時の味。
なんて事ない、りんご味のゼリー飲料。

今でも美味しいけれど、少し違う。

今の私には、そこまでの切実さが必要ないのだと思うと、少しだけ鼻の奥がツンとした。

一人は、やっぱり寂しい。

でも――。

溢れそうになる涙を、ぐっと堪えた。
今はもう、泣かなくても前を向けるはずだ。

「風邪をひく前に、帰ろう…」

残ったカステラを袋に戻し、もう一度、高い空を見上げる。

ありがとうございました。

私は、もう少し頑張ってみようと思います。

そこは神社でもなんでもないけれど、私はあの日の恩人と、今の生活に向けて、静かにお辞儀をした。

駅へと向かう道、マフラーに顔を埋める。

頬を打つ風は相変わらず冷たかったけれど、心にはほんのりと、カステラのような優しい甘さが残っていた。


あとがき

バレンタインですが、今回は静かな話を書きました。

どこに行こうか

ふと、その駅を思い出し、その場所に向かう。そんな思い出のお話しです。

川嶋さんと帽子のあの人との出会いは過去編②に登場しています。


第35話 久しぶりの駅の向こう側

いつものように一通り家事を終えての午前中。
今日は駅の反対側にある郵便局へ向かう。

線路沿いの道をゆっくりと歩いていた。

「あれ、こんなところにコインランドリーあったっけ?」

古いアパートの窓辺に飾られた植木鉢や、角にある小さなパン屋から漂う香ばしい匂い。

ここのパン屋も最近行ってなかったな。
そういえば最近、駅の反対側までは足を伸ばしていなかった気がする。

郵便局での用事を済ませ、せっかくだし、ちょっとぶらっとしようかなと思った。

来た道とは別で少し寄り道をする。ふと足が止まった。

そこには、真新しい「ガチャガチャ専門店」が店を構えていた。
壁一面に整然と並んだ、色とりどりのカプセルが入った機械たち。

(最近、本当に増えたよなぁ……)

見かけてもなるべくスルーしてたけど、今日はちょっと気になる。

近づくと欲しくなっちゃうから、なるべく近づかないようにしてたんだけど今日はいいか。と自分の中で言い訳をする。

私は店内に一歩を踏み出した。明るめの照明に照らされた店内。
店内に人は数人しかいなかった。

まあ、平日だしね。彼女は一人、静かに列を見て回る。

その時、目に止まったガチャがあった。

「レトロ喫茶コレクション」

ガチャの写真が目にとまる。

透き通るような緑色のメロンソーダ。

昔ながらの、少し重厚なガラスの器に乗った、てっぺんに真っ赤なサクランボが乗ったプリン。

そして、琥珀色の飲み物が入ったレトロなグラス。

「可愛い……」

隣のガチャには「懐かしの駄菓子シリーズ」に「薬品チャーム」など。

「あ、このお菓子、昔よく食べたっけ……」

「この薬、CMあったな」

など。気がつくと、私はバッグの小銭入れから百円玉を取り出していた。

「一回だけ。一番欲しかったメロンソーダが出たら、すぐに帰ろう」

そう自分に言い聞かせて。

チャリン。

硬貨が機械に吸い込まれる音。

レバーを回す。

カチ、カチ、カチ……。

重みのある感触が指先に伝わり、コロン、とカプセルが転がり落ちてきた。
中身はプリンだった。

「ああ、これも可愛いけれど……」

そう思うと、もう一度だけ、という声が頭の中で響く。

二回目、今度はレトログラス。

三回目、再びプリン。

「被っちゃった……」

苦笑い。別のにしよう。

100円が足りなくなり両替をする。

次はあのお菓子にしようかな。

結局、私はガチャを五回、回した。
手に入ったものは、レトロ喫茶のプリン2個、レトログラス1個、紅茶缶、そして昔のお菓子。
カプセルは返却し、気づけば手元には5つの商品が残っていた。

さて、スーパーに寄って。あ、あとさっきのパン屋さんにも寄ろう。

先にパン屋さんへ向かう。
店内に入っただけでいい香りがする。

何を買うか迷ったが、ベーコンとバジルのパニーニと、季節限定のイチゴデニッシュを購入した。

その後はスーパーへ。

家に帰り、玄関の鍵を閉める。
いつもの静かな、自分の部屋。

食品などを冷蔵庫に入れた後、テーブルに向かい鞄を漁る。

被ったプリンのキーホルダーをどうしようかと考え、ふと思いつく。
そうだ、玄関の鍵につけよう。ちょうど古くなってたし。

そして残りの四つはテレビの横にある棚を、軽く除菌シートで周りを拭き並べてみた。

プリン、紅茶缶、そして昔懐かしい駄菓子のパッケージ。

殺風景だったテレビ周りが少し華やかに見えた。

「ふふ……可愛い」

独り言だったけれど、それは確かに、心の底から溢れた笑みだった。

誰に見せるわけでもない。ただ、自分が好きだと思ったものを、並べただけ。でも少し嬉しい。

明日からはまた、いつもの日常が始まる。

けれど、明日からは鍵を開けるたびにプリンが揺れ、テレビをつけるたびに小さな喫茶店が目に入る。

なんとなく、今日ガチャガチャ回して良かったかもと思った。

また時々、駅の反対側も行こうかな。

「よし。ご飯食べよう」

さっきパン屋で買ったパンを取りに私はキッチンへと向かった。


あとがき

意外と最寄り駅の反対側って行くこと少ないかもと思い、このお話を書きました。

そしてガチャガチャ。

最近は本当に増えて、つい回したくなってしまいます。

皆さんがどんなふうに回したものを使っているのか少し気になります。

川嶋さんもなんとなく、また近くを通ったら、ガチャを回してしまうんだろうなと思いました。


第36話 梅のクッキー

三月に入って、ようやく冬の寒さが和らいできた。

今朝は日差しが柔らかい。けれど、駅の階段を上がると、ビル風がまだツンと冷たくて、少しだけ首筋をすぼめる。
朝と夜の空気は、春が来たと言い切るには、まだ少し早いのかもしれない。

職場のホビーショップに着き、開店準備を進める。

「川嶋さん、おはようございます」

水谷さんの、いつもの明るい声が響いた。

「水谷さん、おはようございます。今日もよろしくお願いします」

「よろしくねぇ。あとこれ、差し入れ。昨日の夜、久しぶりにクッキー焼いたから」

そう言って水谷さんは鞄から、小さな透明のラッピング袋を取り出した。

「わぁ、可愛い。お花のクッキーですね」

受け取ると、五枚の花びらをかたどった素朴な形のクッキーだった。
その中央には、琥珀のように透き通った、黄色いゼリーのようなものがちょんと乗っている。

「少しだけ、開けてみてもいいですか?」

「ええ、もちろん」

シールを剥がして袋を広げると、ふわっと甘い匂いが立ち上がった。

焼き立ての小麦粉と、バターの香ばしい匂い。お菓子屋さんの前を通ったときのような、甘い香りだ。

「これ、真ん中の黄色いの、綺麗ですね」

「それね、梅ジャムなの。今、ちょうど梅が見頃でしょう?今日の仕事が終わったら友だちと『梅まつり』に行く約束をしてるから、その時に渡そうと思って。梅の花のつもりで、真ん中に梅ジャムチップを乗せてみたのよ。」

「これ、梅ジャムなんですね。今日は暖かいし、楽しめそうでいいですね」

「そうなの。今はまだ少し寒いけど、お昼からは暖かくなるみたいでよかったわ」

水谷さんは嬉しそうに笑って、開店準備に戻っていった。

お店がオープンし、私たちはいつも通りの業務をこなす。
時計の針が十三時近くなった頃、杉山さんが出勤して挨拶をする。

「川嶋さん、水谷さん、おはようございます」

「あ、杉山さん、おはようございます」

「杉山くん、おはようございます。梅ジャム大丈夫そうだったら、クッキーがあるから後で食べてね」

「あれ梅ジャムだったんですね。梅、好きなので後でいただきます。いつもありがとうございます」

「いえいえ、梅好きならよかったわ」

午前業務の引き継ぎを済ませ、私たちは交代の時間になった。

「じゃあ杉山くん、あとはよろしくね」

「はい、お二人ともお疲れ様でした。水谷さん、梅まつり楽しんできてください。」

「ありがとう」

「では、よろしくお願いします」

そして私と水谷さんは、同時にフロアからバックヤードへ抜けた帰り支度をしている水谷さんの横で、私はクッキーの袋を開けた。
バターの優しい甘さが広がり、ゼリー状の梅ジャムが少し甘酸っぱくてクッキーと甘さと合う。

「水谷さん、クッキーすごく美味しいです。梅ジャムとクッキーって、こんなに合うんですね」

「あら、それならよかった。川嶋さんはいつも美味しいって食べてくれるから、作り甲斐があるわぁ。また持ってくるわね」

「でも、毎回は悪いですよ」

「いいのよ、好きで作ってるんだから。それじゃ、行ってくるわね。お疲れ様でした」

「はい、楽しんできてくださいね」

そうして水谷さんは満足そうに微笑んで、軽やかな足取りで店を出ていった。

休憩を終えて売り場に戻り、引き継ぎを済ませる。

売り場が落ち着いた頃、私は杉山さんに先ほどのクッキーの話をした。

「休憩の時に水谷さんのクッキーをいただいたんですけど、梅ジャムとクッキーの甘さが合っていて、すごく美味しかったです」

「そうなんですね。僕も後で食べよう」

「今日は暖かいし、水谷さんも梅祭り楽しめるんじゃないでしょうか」

「そうですね。出勤時は暖かかったから、コートが要らないくらいでしたよ」

「そうなんですか? 朝はまだそこまでじゃなかったですけど……」

「まあ、夜の帰りは寒いから、一応持ってきてはいますけどね」

店内に流れる静かなBGM。
私たちはそれぞれの持ち場につき、午後の業務を進めた。


あとがき

梅のシーズンですね。
私は通り道にある、梅の木の近くを通った時の梅の香りがとても好きです。

梅のお菓子や食べ物もあり、この時期はいいですね。
川嶋さんも梅のお菓子が好きそうと思い、今回のお話を書きました。


第37話 花粉症とルイボスティー

朝でも暖かくなってきた季節。
今日は時折、乾いた風が吹き抜け、街路樹を小さく揺らしている。

自動ドアが開くたびに、花粉が入り込んでくるような、嫌な落ち着かなさがあった。

「……なんだか今日は、目がゴロゴロするな」

商品棚で在庫リストをチェックしながら、私はそっと目頭を押さえた。

今朝の天気予報で「花粉が非常に多い」と言っていたのは、本当だったらしい。

私もいよいよ、花粉症デビューかもしれない。

あと少しで仕事が終わる時間だが、自宅までの道のりを考えると、少しだけ憂鬱な気分になった。

ちょうどその時、裏のドアが開いた。
遅番の中村くんが出勤してきたのだ。

「お疲れ様です……」

けれど、いつもの

「お疲れ様です!」

という元気な声は聞こえてこない。よく見れば、彼の目はうっすらと赤い。
マスクをしていても、鼻の頭まで赤くなっているのが分かった。

「中村くん、大丈夫? 具合悪そうだけど……」

引き継ぎのために近寄ると、彼は力なく首を振った。

「すみません……花粉症なんです。今日は風が強いから、朝からもうしんどくて。外に出た瞬間に終わりました……」

鼻声でそう話す中村くん。
聞けば、毎年のことながら今日は特にひどいのだという。

「私も今日は少し目がゴロゴロするけど、そこまでではなくて。大変だね……」

そんな私たちの会話を聞きつけてか、棚の奥から吉田店長が顔を出した。

店長は中村くんの様子をじっと見ると、茶化すこともなく、真剣な面持ちで声をかけた。

「中村、大丈夫か。今日もかなり酷そうだな」

「あ、店長……。今日もすみません」

「謝ることじゃないさ。もし仕事中にあまりに辛くなったら、遠慮せずに言ってくれよ。裏で少し休むなり、早めに上がるなり調整するからな。無理してミスしてもお互い困るしな」

店長はそう言って、中村くんの肩を軽く叩いた。

普段はおちゃらけているけれど、こういう時はいつもスタッフを真っ先に心配してくれる。

「……ありがとうございます。店長、優しいっすね」

「当たり前だろ。……まあ、俺自身は花粉症になったことがないから、その辛さを本当の意味で分かってやれないのが心苦しいんだけどな」

店長のその言葉に、中村くんが鼻をすすりながら少しだけ笑った。

「店長って、花粉症どころか風邪も引くイメージがあまりないですね。いい意味で、常に無敵なイメージで」

「確かに。私が入ってからも、店長が体調を崩しているのは見たことがないかも」

私がそう付け加えると、店長は

「おいおい、俺だって人間だぞ」

と、心外そうに眉を寄せた。

「風邪くらい引くさ。……最後に引いたの、いつだったかな。三、四年前か、いや、五年前だったか?」

店長が腕を組んで考え込む姿を見て、私と中村くんは思わず顔を見合わせた。

「私がまだいなかった頃ですね」

「ほら、やっぱりそうじゃないですか」

「いや……頻度が、まあ、極端に少ないだけだ」

店長のカラッとした弁解に、店内の空気が少しだけ軽くなる。
私はその時、ふと思い出したことを話した。

「中村くん、ルイボスティーって飲んだことある?」

「名前は聞いたことありますけど、飲んだことないです。普段紅茶飲まないんで」

「花粉症の症状を和らげる効果があるって聞いたことがあるの。一度じゃ効果は出ないと思うけど、味見くらいはできると思うから。もし良ければ今度持ってくるね」

「ありがとうございます、川嶋さん……めっちゃ助かります。」

と、少しだけ表情を和らげた。

「じゃあ、今度持ってくるね。お疲れ様でした」

こうして挨拶を済ませた私は、店を後にした。

外はまだ春の風が吹いている。
私は少しだけゴロゴロする目を瞬かせながら、自宅までの道のりをゆっくりと歩き出した。


あとがき

花粉症の辛い季節、皆様はどのように対策されていますか?

今回は対策の一つとしてルイボスティーのお話を書きました。
執筆にあたって調べてみたところ、花粉症には以下のような飲み物が良いそうです。

べにふうき緑茶、甜茶、ルイボスティーなど
(ポリフェノールが豊富で、アレルギー反応を抑える効果が期待できるそうです)

カフェインや糖分の摂りすぎには注意しつつ、温かい飲み物を選んで体を温めることが症状緩和に繋がるとのことでした。

辛い時期ではありますが、温かい飲み物で少しでもホッとできる時間を持っていただけたら嬉しいです。


第38話 お花見

朝、いつものようにご飯を食べながらテレビを観る。

画面の隅には「桜開花情報」の文字。

ピンク色のアイコンが地図の上に並び、キャスターが「満開ですね」と告げていた。

「満開だ、今日はお花見に良さそう」

以前から、今年の桜もどこか静かな場所で見たいと思っていた。

今日は久しぶりの休日。
窓を開けると、入り込んできた風はまだ少し冷たい。

四月上旬。
春になり始めたけれど、クローゼットから少し厚めのコートを取り出した。

「一応、これで行こう」

そう決めて、バッグに水筒とお弁当を詰め、準備を進める。

電車に揺られること二十分。
向かったのは、何度か訪れたことのある都心の庭園だ。

私は、広い公園よりもこうした庭園の方が好きだ。

数百円の入場料がかかるからか、あるいは少し「格式」のようなものを感じるからか、一般的な公園に比べて人通りが穏やかな感じがする。

今日は、平日の午前中ならなおさらだ。

……半年ぶりくらい、かな

最後に来たのは、木々が赤や黄色に色づいていた秋の頃だったと思う。
チケットを買い、門をくぐると、立派な枝ぶりの大きな松が迎えてくれる。

その力強い緑を抜けると、視界がぱっと開けた。
大きな池を囲むように広がる緑と、丁寧に手入れされた小径。

マップは見ず、ただ足の向くままに歩き出す。
行き先を決めない散歩をすると、自然と気が楽になる。

しばらく歩くと、遠くに淡いピンク色の木が見えてきた。

「わぁ……綺麗」

近づくにつれ、その圧倒的な存在感に目を奪われる。
そこは庭園の中でも桜が集中しているエリアで、約二十本の桜が咲き誇っていた。やはりこの場所だけは、少し賑やかだ。
芝生にブルーシートを広げ、談笑しながら花を愛でるグループもいる。
私はその輪からは少し離れ、桜にスマホを向けて写真を撮った。

青空に溶け込んでしまいそうな、繊細な花びら。
風が吹くたびに、わずかに枝が揺れる。
何枚か写真を撮ったあとは、スマホをポケットにしまった。

ファインダー越しではなく、自分の目で桜を見上げる。
そして私は、その場を静かに離れた。

昼を過ぎると、雲が切れて柔らかな日差しが降り注いできた。
空気の角が取れ、コートの重みが少しずつ温かさに変わっていく。

「ここでいいかな」

少し離れた、椅子のある場所に座る。喧騒からは遠い、景色の良い場所。

私はカバンからお弁当箱を取り出す。
中身は、昨夜の残りのきんぴらごぼうと、朝ごはんの残りの卵焼きとおにぎり。
豪華な花見弁当ではないけれど、外の空気の中で食べるだけで、それは特別なご馳走に変わる。

「……美味しい」

一口噛みしめるごとに、疲れていた体の内側が解けていく気がした。

食後は、なんとなく景色を眺めながら、持ってきた小説を読み始める。
ページをめくる指先に、時折ひんやりとした風が触れる。
景色を眺め、文字を追い、またふと目を上げて景色を見る。

かつての忙しない日々の中では、こんなふうに「ただ景色を見るだけ」の時間を持つことはなかった私。

あの時に比べたらだいぶ落ち着いたなと思う。

一時間ほど読書を楽しんだだろうか。

日が少し傾き、再び肌寒さが戻ってきた。

「そろそろ、帰ろう」

これ以上長居をして、風邪を引いてしまっては明日の仕事に響く。
私は本を閉じ、出口に向かった。

帰り道、門へ向かう途中で最後にもう一度だけ、池の向こうに見える景色を振り返る。

春の桜は、いつもあっという間に過ぎ去ってしまう。
けれど、桜は来年も咲く。

「また来年も来ようかな。別の庭園もいいかも」

そんな事を思いながら、自宅への道を歩いた。


あとがき

お花見の季節ですね。

ご飯を食べてお酒を飲んで楽しむ人もいれば、川嶋さんの様に写真を撮って少しだけ見て楽しむ人もいます。

毎年やってくる桜の季節。

皆さん様々な過ごし方でお花見を楽しんでくださいね。


第39話 新学期

四月の昼下がり。
店内には、暖かな日差しが差し込んでいた。

時間は十二時を少し過ぎたころ。自動ドアが開いた。

「いらっしゃいませ」

レジカウンターで商品の検品をしていた私は、顔を上げて声を出す。

入ってきたのは、四人の学生たちだった。
その姿がなんとなく目に止まった。
彼らが着ている紺色のブレザーは、まだ生地に硬さが残っていて、折り目も新しい。足元のローファーも綺麗だった。

(新入生かな……)

そんなことをぼんやりと思っていると、水谷さんが呟いた。

「新入生かしら。制服が新しいし。新学期っていいわね、なんだかこっちまで新鮮な気持ちになるわ」

水谷さんが、笑顔でそう言った。
彼女の顔を見ていると、私の口元も自然と少しだけ上がった。

「そうですね。四月ですし、春だなと感じます。水谷さんは、春は好きですか?」

と私が尋ねると

「はい、好きですよ〜。春は出会いの季節ですから」

水谷さんは、迷いのない声で答えた。
彼女らしい、真っ直ぐで明るい言葉。

「でも……出会いもありますけど、別れもありますよね」

仲の良かった人達と別れて、新しい道に進む。

慣れ親しんだ場所を離れ、また新しい場所で、人間関係に揉まれる不安もあるだろう。

「まあ、確かにそうね。でもね、川嶋さん。別れがあるから、新しい出会いもあるのよ」

「新しい出会い……」

彼女はそこで一度言葉を切ると、私の方を向き、悪戯っぽく笑った。

「……例えば、私と川嶋さんが、ここで出会えたみたいにね。私、ここで働くことになって、川嶋さんと出会えて良かったって思ってるのよ〜」

あまりにも真っ直ぐな、 水谷さんらしい言葉がとても嬉しかった。

「ありがとうございます。私も水谷さんと会えて嬉しいです」

するとフロアから呼び声が聞こえた。

「すいませーん!」

店内に、先ほどの高校生たちの元気な声が響いた。

「あ、私が行ってきますね〜」

水谷さんは彼らの方へ歩み寄っていった。

「これ? これはね、最近入ったばかりで割とレアものよ。ちょっと見てみますか?」

すぐに学生たちと打ち解け、笑い合っている彼女の背中を見ながら、やっぱりコミュ力高いなぁ、と私は心の中で感心した。

(別れがあるから、出会いがあるか)

前の職場を辞めたあと色々あったけど、私は今、お店で皆さんと働いている。

これも何かの縁だったのかな。そんなことを思いつつ、私は仕事を続けた。春の日差しは店内にいても眩しく感じた。


あとがき

4月になり、新入生、新学期の季節になりましたね。
私は通勤時間帯の電車に乗ると、特にそう感じます。

私は最近、一つの別れがありました。でも新しい出会いもありました。

そのことをふと思い出して、今回このお話を書きました。

皆さんにも新しい素敵な出会いが訪れますように。


第40話 ツツジまつり

今日は休日。
朝から雲一つない、透き通るような晴天だ。

「よかった、晴れて」

窓から差し込む陽光に、思わず独り言がこぼれる。

軽く朝食を済ませると、私は少しだけ急いで支度を始めた。
向かうのは、以前ネットで見かけてからずっと気になっていた場所だ。

昨秋、一人でバラ園へ足を運んでからというもの、季節の花を追いかけるのもいいなと思った。

「わぁ……綺麗」

目的地である神社の境内に一歩足を踏み入れると、鮮やかな色彩が目に飛び込んできた。

そこでは

「ツツジまつり」

が開催されていた。

平日の朝一番なら空いているだろう、という私の予想は見事に外れた。

「やっぱり、人気なんだな」

券を買い中へ入ると、すでにたくさんの人で賑わっている。

窮屈さを感じるほどではないけれど、写真を撮ろうとスマホを構えると、どうしても誰かの後ろ姿がフレームに収まってしまう。

そんな混雑さえも、この景色を見たら、どうでも良くなってしまう。

(綺麗だなぁ……)

赤、白、ピンク。

こんもりと丸く整えられたツツジの山を眺めながら、ゆっくりと歩を進める。

周りを見渡すと、老夫婦やカメラを抱えた若者、熱心に説明書きを読んでいる外国の方など、様々な世代の人がそれぞれのペースでツツジを愛でていた。

かつての私なら、人混みに気後れしてすぐに帰っていたかもしれない。
けれど、最近はそこまで気にならなくなってきた気がする。

しばらく楽しんだ後、私はツツジ園を後にし、本殿への参道へ向かう。
一歩進むごとに、神社特有の静けさに近づいていく。
私は、この静かな空気が好きだ。

いつものように、二礼二拍手一礼。

心の中でお参りをし、顔を上げる。

授与所に向かうと、季節限定のツツジが刺繍されたお守りを見つけた。
淡いピンク色の刺繍がとても可愛かった。

買うか迷ったけれど、私は自分へのお土産として一ついただき、一礼して境内を後にした。

「お昼、どうしようかな」

お腹が空いてきた。

神社の近くにある商店街へと足を向ける。
香ばしいお団子の醤油の匂いや、揚げ物の香り。
活気ある呼び込みの声に誘われ、右往左往してしまう。

「美味しそうな店がいっぱいで、迷うなぁ……」

結局、どのお店も満席に近かったので、食べ歩き用のお惣菜をいくつか買い、気になったデザートは持ち帰り用として買った。

少し歩くと、入り口に大きな木が立つ公園を見つけた。

(ここで食べようかな)

日当たりのいいベンチに腰を下ろす。

「ちょっと日差し強くて暑いけど、いいか」

日焼け止めはきちんと塗ってきたし、食べたらすぐ帰ればいいよね。

そんなことを思いつつ私は、テイクアウトしたばかりのコロッケとベーグルを食べる。

「……美味しい」

やっぱり外で食べるご飯は、美味しいな。

デザートに買ったカヌレは帰ってから食べよう。

ふと、「帰ったら溜まった洗濯物を片付けなきゃ」という現実的な思考が頭をよぎる。

「でも、いい休日だったな」

ゴミを鞄にしまい、私は駅までの道のりを歩いた。


あとがき

今回は根津神社と谷中商店街を舞台にしてみました。

私は一度だけ根津神社に参拝しに行ったことがありますが、ツツジの時期ではなかったので、いつか行ってみたいなと思いました。

今が時期なので、興味のある方はぜひ調べてみてくださいね。


番外編 水谷さんと橘さん

「こんにちは〜。橘さん。 お久しぶりです」

「あ、水谷さん。久しぶり!」

職場からは離れたとあるカフェにて懐かしい声が響く。

「橘さん、赤ちゃん生まれたんですよね。おめでとうございます〜」

「ありがとう。女の子なのよ。もう少し大きくなったら、今度ぜひ連れてくるね」

「わぁ、ぜひ会いたいわ!」

弾む声と一緒に、あらかじめ用意していた軽めのお祝いのお菓子をそっと手渡した。
彼女の笑顔を見ていてふと、私の記憶は、少し前のあたたかな春の日に巻き戻されていった。

それは、まだ桜の余韻が残る春の日のこと。
橘さんから「子育ても少し落ち着いたから、久しぶりにランチでもどう?」とLINEをもらったのがきっかけだった。

同じ会社に籍を置いていても、勤務時間やシフトの関係で、私たちが職場で顔を合わせることはほとんどなかった。
それでも、最初に出会ったあの頃と同じように、私たちは今でも自然と苗字で呼び合っている。

ここではない別の場所。
私は油絵を描いていて、その展示会に参加した日のことだった。
絵に詳しくないその女性が、私の絵をとても気に入ったと話してくれて、気づけば時間を忘れて話し込んでいた。それが橘さんだった。

今の職場を紹介してくれたのも、橘さんだ。
私がちょうど時短で働けるところを探していたと話したら、
「アパレルの買い取り経験があるなら、私の職場はどう? 私はもうすぐ退職しちゃうから人員的にも心配だし、時短はわからないけど募集はしているはずよ」

彼女の言葉に背中を押され、私はあえて「橘さんの紹介」とは伏せて面接に挑んだ。
午前中だけの短いシフトだったけれど、無事に合格。
私とこの職場の縁を繋いでくれたのは、間違いなく彼女だった。

「川嶋さんっていう、すごくいい子がいるの」
採用が決まった時、橘さんはそんな話をしてくれた。
「一生懸命なんだけど、ちょっと自分に自信がなさそうな子で。でも、明るい水谷さんとなら、きっとすごく良いコンビになれると思うな」

初めて川嶋さんに挨拶をした日のことを、今でも鮮明に覚えている。
大人しそうな女の子が、緊張で少し肩を硬くしながら、それでも精一杯の笑顔で接客を頑張っていた。
接客業は初めてだと、照れくさそうに教えてくれた。

でも、言葉を交わしていくうちに、私はすぐに川嶋さんのことが大好きになった。
彼女のひたむきさ、誠実さには、人の心を惹きつける特別な何かがあったから。

お洒落なカフェでランチを食べながら、橘さんとの会話は自然と今の職場の話、そして川嶋さんの話へと広がっていく。

「最初の頃は女性が私だけだったからさ、水谷さんが入ってくれて、川嶋さんも安心したと思うわ。なんとなくだけどね」

「私も川嶋さんがいてくれたから続いているのかもしれないわ〜」

その後は、先輩ママである私から橘さんへ、子育てのアドバイスを少しだけ伝授したりして、時間はあっという間に過ぎていった。

「今度またご飯に行く時は、川嶋さんも一緒に誘いたいね」
どちらからともなくそんな言葉が出た。

「うん、ぜひ。三人で集まったら、もっと楽しくなるわね」

私は橘さんを見送った。

(近いうちに、川嶋さんに声をかけてみようかな)

そして私は自宅に向かって歩いていった。


40.5巻 あとがき

凪月桐です。
早いもので川嶋さんシリーズも、おかげさまで40話まで来ることができました。
毎回書いているかもしれませんが、自分でもこんなに続くとは思っていなかったので、今でも驚いています。

今回の番外編は水谷さんと橘さんのお話を書きました。
接点のない二人でしたが、実は知り合いでしたというお話です。
水谷さんがどのような人なのか、彼女目線で書くことがなかったので新鮮な気持ちで書けました。

7月末から手探りで始めた短編連作ですが、週一投稿を目標に、ストックを作りながらなんとか続けてこられました。
本当にありがとうございます。
今後ともよろしくお願いします。