【7巻+特別編】 昔の私へ、今の私より 川嶋夏希シリーズ 「日常編」 新エピソード順次追加予定

川嶋さんシリーズまとめ 1巻〜

※こちらは創作大賞応募までの7巻(47話まで)+特別編です。
今後、日常編を順次追加予定です。

あらすじ

明日なんて来なければいい‥‥。

35歳の川嶋夏希は、営業職と派遣社員で鬱病と挫折を経験し、社会の歯車からこぼれ落ちていた。

店長や仲間に支えられ、品物に宿る想いや人との関わりのある仕事に触れる中で、彼女は自分らしい「生きるペース」を取り戻していく。

この物語のテーマは『日常の中で、少し前向きになれること』

一度立ち止まった女性、川嶋夏希が、働く日々を通じて再び歩き出すまでを描く、優しくて力強い再生の物語。

※エピソード0として書かれている過去編、川嶋夏希の日々の日常やホビーショップで働く日常編がございます。

短編・連作小説としてnoteにて投稿していたお話を微修正し、まとめた作品です。マガジンにて、気になるお話からもご覧いただけます。


第41話 五月五日

五月五日。
仕事を終えた私は、職場近くの商店街を歩いていた。

八百屋の店先を通りかかると、バケツに無造作に突き刺された細長い葉っぱが目に入る。

「あ、菖蒲(しょうぶ)……。そういえば、今日は端午の節句か……」

手書きの値札を見て、ようやく今日が端午の節句であることを思い出した。

そんなことを考えながら歩いていると、和菓子屋の店先に揺れる、少し色あせた鯉のぼりが目に入った。
私はそれに誘われるように、のれんをくぐった。

店内は、蒸したてのお餅の甘い香りと、笹の葉の香りがした。

「いらっしゃい。今日は五月五日だからね。
柏餅はこしあんと粒あん、草餅もあるよ」

店主のおばあさんの優しい声。

「もう時間も時間だし、二十円引きするよ」

「ありがとうございます。どれも美味しそうで迷うな」

つい目移りしてしまう。本当は、一つだけでよかったけど、一つは買いづらいな。

「……柏餅の粒あんと、草餅ください」

「はい、ありがとうね」

手際よく紙に包んでくれるおばあさん。

ケーキ屋などもそうだけど、一つでと言えない事が多い。

その帰り道、スーパーにも寄り、お弁当を買った。

自宅に戻り、商店街で一緒に買ったお弁当と、柏餅と草餅をテーブルに並べた。

「買いすぎたかな……食べ過ぎかも」

と独り言が漏れる。

けれど、結局すべて平らげてしまった。

「美味しかった、ご馳走様でした」

連休でもたくさん仕事を頑張った自分へのご褒美ということにしておこうと、自分の中で言い訳をした五月五日だった。

あとがき

二つもいらないだろうと思いつつ、一つは買いづらいということが割とあります。

私はコンビニやスーパーでは一つでも買うけれど、パックや箱に入れてくれるお店だと、どうしても買ってしまう人間です。

皆さんは一つでも気にしませんか?

やっぱりこんな出来事も、人それぞれなのかなと思いました。


第42話 五月の真夏日

「川嶋さん、おはよう。今日も暑いねぇ」

今日の午前中は店長と二人のシフト。

午前出勤にもかかわらず、外は真夏のように暑い。

「天気予報では、最高気温三十度を超える真夏日だと言ってましたね」

「一応まだ5月なんだけどねぇ」

そう言いながら吉田店長は額の汗を拭いている。

「ほんとですね。 休みの日でも外に出たくなくなります」

「俺は昨日休みだったけど、ビールが美味かったな」

「つまり出かけてないんですね」

「ご飯買いに、コンビニには行ったよ」

そんな話をしながら店長は早速エアコンのスイッチを入れた。

しばらくすると涼しい風が入り込んでくる。

「この前、杉山くんと遅番二人だった時にエアコンのフィルター掃除しておいてよかったよ」

「ありがとうございます。とても助かります」

「いえいえ。自分の家はまだだけどね」

「私もまだ、掃除してないです」

衣替えはこの前やったけど、まだ扇風機も出してないなと思った。

「涼しい〜。 もうエアコンの季節になっちゃいましたね」

「ほんとだねぇ」

「接客業だからしないけど、もっと薄着したいよ。ほんとはエプロンも脱ぎたい」

「それはダメですよ」

「いや、わかってるよ、思ってるだけ」

「それはわかりますよ」

そんな冗談を言いながらも、店長は手際良くコンテナ内の確認、伝票やノートの確認をしている。

「今日は引き継ぎも結構あるね。 昼前から出張買取行ってくるから少し一人になるけどよろしくね」

「はい、大丈夫です。 換気中お疲れ様です。 水分補給お忘れなく」

「そうだね。 スポドリ持っていくよ」

「はい、そうしてください。 倒れたら大変ですから」

「ありがとうね、川嶋さん。 杉山くんは同じこと言ってるのに、言い方がきついのよ」

と笑い話のように語る店長。

私も自然と笑ってしまった。

「さて、今日も仕事たくさんあるよ。 頑張ろうね」

「はい」

私の部屋も、エアコンと扇風機の掃除をしないとなと思った。

そんな真夏日の朝だった。


あとがき

5月でもアイスクリームが食べたくなる季節になりましたね。

最近はショッピングモールに行くと、クーラーが効いていて少し寒いくらいです。

エアコンのフィルターの掃除をすると、電気代も多少ですが安くなるので、私も早くやらないといけないなと思いました。


第43話 教えてもらったカフェへ

今日は休日。
家事も一通り終わり、特に予定もなかったので、少し時間は経ってしまったが、以前コウタくんのお母さんにいただいたショップカードのカフェに行ってみることにした。

カードのQRコードから見た写真がとても美味しそうで、ずっと気になっていたというのもある。

最寄駅から電車で十五分ほど。そこから少し歩いた住宅地の先に、そのカフェはあった。

隠れ家カフェみたいだと思った。
ウッド基調の外観で、落ち着いた雰囲気のお店。写真で見た通りだった。

ドアを開けると、すぐに声がかかる。

「いらっしゃいませ。あら、川嶋さん!?」

店内から、以前会ったコウタくんのお母さんがこちらを見て驚いていた。

「こんにちは。覚えていてくださったんですね」

「もちろんです。以前は本当にありがとうございました。こちらへどうぞ」

「はい、失礼します」

席に案内されながら、メニューを渡される。

「今日の日替わりランチはドリアです。他はこちらに載っていますので、ごゆっくりどうぞ」

「ありがとうございます」

どれも美味しそうなメニューの写真で少し迷ったけれど、結局日替わりにした。

「すみません、日替わりでお願いします。ドリンクはダージリンのホットで」

「かしこまりました。ドリンクは食前と食後、どちらになさいますか?」

「食前で」

「かしこまりました。少々お待ちくださいね」

待っている間、ホール業務の合間に、お母さんが少しだけ話しかけてくれた。

「夫がシェフでして。良平は夫の弟なんです。休日に時々、お手伝いに来てくれるんですよ」

そう言われて、あの日の公園のことを思い出す。

「コウタとも、そのときによく遊んでくれていて。あの日も、公園で遊ぶ予定だったんです」

「本当に……川嶋さんにはお世話になりました」

「いえいえ、私は大したことはしていませんので」

そう答えながら、少しだけ視線を落とす。
だいぶ慣れてきたとはいえ、改めて感謝されると、まだ少しむず痒い。

お母さんの名前は美幸さんというらしい。
このカフェは三年前から始めたことや、おすすめのメニューの話など、いろいろと教えてくれた。

しばらくして、

「お待たせしました」

テーブルに置かれたドリアは、見た目だけでも食欲をそそる。
かぼちゃや人参が使われていて、彩りもきれいだった。
バケットも2枚添えられている。

「わあ……美味しそう」

思わずスマホで写真を撮った。

「ありがとうございます。うち、デザートもおすすめなんです。自家製プリンなんですけど、アレルギーなどなければ、食後にいかがですか?」

調べた時の写真に載っていたものだと思った。

「……はい、いただきます」

ドリアは熱々で、冷ましながら食べた。チーズの伸びが良く、でもチーズのしつこさもない、とても食べやすい味だった。鶏肉も柔らかくて美味しい。

食後にいただいたプリンは、昔ながらの少し硬めのプリンで、丁寧に作られているのが素人目にもわかった。

フルーツの盛り付けも可愛らしく、こちらも写真を撮る。

満足してお会計に向かうと、お母さんが首を横に振った。

「今日は、お代はいいですよ。お礼ですし」

「え、それはさすがに……」

申し訳なくて、ランチ代だけは支払った。
その代わりにと、小さな袋に入ったクッキーを手渡される。

「すみません、いろいろいただいてしまって」

「いえいえ。よかったら、また来てください。きっと、コウタや良平も会いたいと思うので」

「……はい。ありがとうございます」

その後、美幸さんが少し迷ったようにして、話しかけてきた。

「もしご迷惑でなければ、またお店に伺ってもよろしいですか?コウタも喜んでいたので」

「……はい、ぜひ。うちのお店は常連さんも多いので」

「ありがとうございます」

美幸さんはとても嬉しそうにしていた。
それを見て私も少し笑えた気がした。

外に出て、来た道を歩く。

他のメニューも美味しそうだったし、また来ようかな。
お給料日後とか。

また来たいと思える場所が一つ増えた気がした。


あとがき

一つの出来事から、また別のつながりが生まれることもあるんだなと思い、このお話を書きました。

川嶋さんも今の職場で働き、少しずつ人と話せるようになったからこそ、「また来たい」と思えたり、お母さんと席で会話を交わせたのだと思います。

無理のない距離で、ゆっくりと広がっていく日常。
そんな一日も、川嶋さんらしい時間なのかもしれません。

※コウタくんは、「迷子の男の子」、「男の子との再会」の回に登場しています

https://nazuki.treaf-site.com/n/na226cebeb1af
https://nazuki.treaf-site.com/n/n00f778f49c48

第44話 紫陽花と雨

「大雨だなぁ」

休日。食材の買い物に行こうと思っていたのに、窓の外は大雨だった。

雨粒が窓を叩き、時折強い風が吹きつける。

「こんなに降るなんて」

スマホで雨雲レーダーを見ると、どうやら一時的な雨らしい。

急ぎの用事でもない。私はソファに腰を下ろし、電子雑誌を開いた。
料理特集のページを眺めていると、美味しそうなレシピが次々と出てくる。

「あ、これ美味しそう」

材料の一覧を見ながら指で画面をなぞる。

「この調味料は使ったことないな」

買ったところで、使うのはこの料理だけかもしれない。

一人暮らしをしていると、そんなことをよく考える。
自分しか食べないから、調味料一つ買うにも少し悩む。
それでも、今度作ってみようかなと思いながらレシピを保存した。

しばらく雑誌を読んでいるうちに、雨音が少し静かになった気がした。

顔を上げて窓を見る。
さっきまでの大雨が嘘みたいに、小雨へと変わっていた。

「このくらいなら大丈夫かな」

やむまで待つこともできるけれど、それでは今日の買い物が面倒になってしまいそうだ。

私は立ち上がり、軽く支度をしてスーパーへ向かった。
傘を差して歩いていると、いつもの道沿いに咲く紫陽花が目に入った。

毎年この時期になると咲く、見慣れた紫陽花だ。

今日も綺麗だなと思いながら通り過ぎようとして、ふと足を止めた。
葉の上に、小さな水滴がいくつも乗っていた。

「そっか」

当たり前の景色のはずなのに、傘を差しながら見る紫陽花が、私にはとても綺麗に映った。

晴れた日に見かけることが多かったからだろうか。
葉の上で揺れる水滴は、小さなガラス玉みたいに光っていた。

私は傘を肩で支えながらスマホを取り出し、その景色を写真に収めた。
画面の中に映った紫陽花は、いつもより少しだけ瑞々しく見えた。

「綺麗」

思わず声が漏れる。

大雨だったら、きっと足早に通り過ぎていただろう。
でも、この小雨だったから気づけた景色があった。

ほんの少しだけ、気持ちが明るくなる。
私はスマホをしまい、紫陽花をもう一度見上げた。

さて、スーパーへ行こう。

そんなことを思いながら、私は再び歩き出した。


あとがき

雨の日は少し気分が沈みがちですが、普段見慣れている景色の中にも、その日だからこそ気づけるものがあるのかもしれません。

今回の紫陽花のお話は、晴れた日には気づかなかった小さな発見でした。
かたつむりなども、そうかもしれませんね。

嫌いな雨の日でも、ふと足を止めて周りを見てみる。
そうしたら、意外といいことが見つかるかもしれません。
そんな小さな発見を、これからも大切にしていきたいと思います。


第45話 大雨と雨宿り

昼休憩を終えた平日の午後、店には私一人。  

店内が落ち着いていたので、店長は「ちょっと倉庫の整理してくるわ」と裏へ向かった。今は、控えめなBGMだけが静かに空間を満たしている。

私はレジカウンターの隅で、新しく入荷した商品の検品をしていた。
一つずつ手に取り、傷がないか確かめてから袋詰めをする。

「……あれ」

ふと顔を上げると、さっきまで穏やかだった空は見る間に鉛色に変わり、辺りはすっかり暗くなっている。

(降りそうだな。店長、大丈夫かな)

そう思った直後、バチバチと窓を叩く激しい音が響いた。バケツをひっくり返したような雨。予報にはなかった大雨だった。

スッ、と自動ドアが開いた。  
チャイムの音は激しい雨音にかき消されている。
入ってきたのは、三十代半ばくらいだろうか。紺色のスーツに身を包んだ、いかにも仕事中といった風貌のサラリーマンだった。

彼は入り口のマットの上で足を止めると、手早く傘をたたみ、申し訳なさそうに肩の雨を払った。

「すみません、ひどい雨で……少しだけ雨宿りさせてもらってもいいですか」

男性は私と目が合うと、軽く会釈をした。上着の肩がぐっしょりと濡れている。

「はい、大丈夫ですよ。ひどい降り方ですから、落ち着くまでゆっくりなさってください。タオルはありますか?」

私はそう言って、カウンターの下からタオルを探そうとした時、

「ありがとうございます。でもハンカチを持っているので大丈夫です。お気遣いすみません」

「いえいえ、どうぞごゆっくり」

「ありがとうございます」

男性はカバンから四角く畳まれたハンドタオルを取り出し、手際よく髪とスーツの水分を拭っていた。

男性は入り口付近に佇んで所在なげに外を眺めていたが、やがて誘われるように店内を歩き始めた。

整然と並ぶプラモデルやフィギュアの箱を、珍しいものを見るような目で見つめている。
私は商品加工の手を動かしつつも、その様子を少しだけ目で追っていた。

やがて、彼は足を止める。
そこは、コンテナの中に「レトロゲーム」が並んでいるコーナーだった。箱の角が少し擦れたゲームのソフトや、ゲーム機。
作業をしながら、私はそっと彼の様子を伺った。

「……あ」

小さな、独り言のような声が聞こえた。

男性はケースの中の一点をじっと見つめている。その表情からは、先ほどまでの「仕事中の顔」が消えていた。
彼はしばらくの間、コンテナの中の商品を眺めていた。

やがて、外の雨音が少しずつ弱まっていった。

視界を遮るほどの雨も収まり、景色がうっすらと明るさを取り戻し始める。

「……よし、そろそろ行けるかな」

男性は小さく呟いてレジの方へ歩み寄ってくると、私に向かって深々とお辞儀をした。

「雨、少し弱くなったみたいなので。これで失礼します」

「いえ、お気をつけて。まだ路面が滑りやすいかもしれませんから」

「ありがとうございます。……あの」

「さっきの昔のゲーム、すごく懐かしくなりました。ああ、昔これ持ってたな、って……。なんだか、少しだけ元気が出ました」

「それは良かったです」

「本当は、もっとゆっくり見たいんですけど。今は仕事中なので……。
休日に改めて、見に来ます。その時に何か購入させていただきます」

「そんな、お気になさらず。でも、ありがとうございます。またのご来店をお待ちしております」

スッ、と開いた自動ドアから、雨上がりの湿った風が入り込む。
男性は軽く礼をして、再び傘を手に街の中へと消えていった。

再び、店内にBGMだけが流れる。  
私は彼が立ち止まっていたショーケースの前に立った。そこには、古いドット絵のRPGソフトが静かに置かれていた。

(あの人と私、同じくらいの世代なのかな……)

そんなことを思いつつ、ふと足元に目を落とすと、男性の靴から滴り落ちた雫が床を濡らしていた。モップを取りにいきながら、私は裏の倉庫のことを考える。

ふと、裏の倉庫のことが頭をよぎる。

(店長、大丈夫かな。倉庫にいたら濡れることはないと思うけど、あの人は慌ただしいから、急に外に出たりしてなきゃいいけど……)

お節介な心配かなと思いつつ、私は明るくなっていく空と共に、軽く店内の掃除をした。


あとがき

突然の大雨。
天気予報では言ってなかったのにと、思うこともありつつ仕方ないですよね。
そんな時、今回のように雨宿り出来るところが近くにあったらいいのにと思う時があります。

今回はそんな雨宿りのお店で、仕事中に少しだけ元気をもらえた男性のお話を書きました。


第46話 花火大会(前編)

街全体がどこかそわそわと浮き足立つ、花火大会の日の休日。

私が勤めるカフェも、この日ばかりはいつもより早く店を閉めることになっていた。今日の居残り組は店長と杉山さんのはずだ。

せっかくの休日だし、仕事がないのに混雑する花火大会へ出かけるかどうか、実は直前まで迷っていた。
けれど、とあるお誘いを受けたことで、私の何もないはずだった休日は動き出すことになる。

時は少し遡る。

新しいシフト表が出た日、そこに自分の名前がないのを見て、私は花火大会に行くのをわざわざ行くほどでもと迷っていた。
ただ、「もし水谷さんが行くなら、私も行ってみたいかも」と、胸のどこかで淡い期待を抱いていただけだった。

しかしその数日後、水谷さんとシフトが一緒になったとき、なんと彼女のほうからお誘いがあったのだ。
私はそのお誘いが嬉しくて、花火大会を含めたその日の訪れを、ずっと密かに心待ちにしていた。

そして当日、夕方近く。
私は水谷さん、橘さんと無事に合流し、3人でカフェの席に座って女子会をしていた。

「実は私たち、最初はね……」

そんな水谷さんの言葉から始まったのは、二人の出会いのエピソードだった。それから、たわいのない世間話へ、そしていつしか仕事の話へと、会話は心地よく流れていく。

ふと、橘さんが私の目をまっすぐ見て微笑んだ。

「それにしても川嶋さん、本当に成長したよね」

「えっ、そうですか……?」

思いがけない言葉に、私はティーカップを持ったまま動きを止めてしまった。

「本当にそうよ。入ったばかりの頃なんて、ちょっと怖そうなお客様の会計で慌ててたじゃない。それが今じゃ、お店のトラブルも一人で冷静に対処できちゃうんだから」

橘さんが懐かしそうに目を細める。その言葉が気恥ずかしくも、胸の奥をじんわりと満たしていく。

「私が初めて会った時も、まだぎこちなかったですよね〜」
水谷さんもそう言って楽しそうに振り返り、私は少しだけ苦笑いをした。

それから橘さんは嬉しそうに、「見てみて、これうちの子なの」とスマートフォンで写真を見せてくれた。
「可愛いですね〜」などと私たちは写真を覗き込む。

今度は水谷さんが昔の話をしてくれた。

「私だって昔は婚活で本当に苦労したのよ。実は一度、離婚も経験しているしね。だから川嶋さんだって、焦らなくて大丈夫。まだまだこれからよ」

「ほんとよ、川嶋さんには幸せになってほしいよね」と橘さんも頷く。

普段、私は婚活系の話題があまり得意ではない。
どこか品定めされているような、あるいは急かされているような気分になるからだ。けれど、水谷さんと橘さんの言葉は不思議と嫌ではなかった。
おそらく、純粋な優しさが滲んでいたからだと思う。

楽しい時間はあっという間に過ぎ、橘さんが時計を見て小さく声を上げた。

「そろそろ帰らなきゃ。実家で、一時的に子供を預かってもらっているの」

名残惜しそうに席を立ちながら、橘さんは私たちを振り返った。

「職場では普段、私は会うことないから、今日はすっごく楽しかった! また絶対に3人で話そうね」

「はい、ぜひ!」と私。
「絶対だからね〜」と水谷さんも笑って手を振った。

駅で橘さんを見送った後、水谷さんが私に向き直る。

「じゃあ、川嶋さん。私たちもそろそろ行こうか」

「はい!」

私たちは賑わい始めた街の雑踏へと歩き出した。
向かう先は、店長たちが待つ、あの私たちの職場へ。


第47話 花火大会(後編)

橘さんと別れた私たちは、次の目的地へと向かった。
そこは、シャッターの下りたお店の正面ではなく、倉庫の入り口だった。
水谷さんがインターフォンを鳴らすと、間もなくして店長が顔を出した 。

「お、来たね。二人とも」

「はい、今日はよろしくお願いします!」

私が少し緊張して頭を下げると、店長は肩をすくめて笑った。

「堅苦しいよ、川嶋さん。今日はオフの集まりなんだから。水谷さんも、わざわざありがとうございます」

「いえいえ、こちらこそ楽しみにしていたんですよ〜」

「上で杉山くんが準備してるから、上がって」

店長に促され、私たちは階段を上って屋上へと向かった。

屋上へ出ると、心地よい夜風と共に杉山くんが迎えてくれた。

「二人とも、お疲れ様です。わざわざありがとうございます。二人が来てくれなかったら、店長と二人きりになるところだったので、そうなったら僕はお断りして帰るつもりでした」

「ちょっと、それはないよ杉山くん!」

店長が慌てて声を上げるが、杉山くんは淡々と続ける。

「いや、男二人きりで屋上で花火を見るなんて、普通に嫌ですよ。中村がいるならまだいいですけど」

「相変わらずのコンビですね〜」

水谷さんが楽しそうに笑う。

「普段、私は午後のシフトにいないから、二人の掛け合いを聞いているだけで新鮮で楽しいです〜」

そんな二人のやり取りを見つめながら、私はあはは、と少し苦笑い混じりに笑った。

すると、店長が屋上のテーブルを指さした。

「一応、コンビニでおつまみとか飲み物は買っておいたよ」

「私たちも、来る前に少し買ってきました。サラダとかパンとか……」

あえて男の人が買いそうなおつまみ系は避け、つまみやすい軽食を選んで持ってきたのだ。

「ありがとうございます、助かります」

杉山さんが嬉しそうにそれらを受け取ってくれる。
そんな何気ない会話を交わしながら、私たちは花火の時間が始まるのを、少しの雑談と共に待った。

やがて、夜空にドン、と重い音が響き渡った。

「お、そろそろかな」

それを合図にするかのように、次々と音が響き、夜空に大輪の花火が開き始めた。

建物の影になって完璧にすべてが見えるわけではないけれど、半分ほどはきれいに顔を覗かせてくれる。

昨年と同じメンバーというわけではない。
それでも、こうして職場のみんなと並んで見上げる花火は、とても綺麗に見えた。

大音響のなかでは、言葉を交わしようとしてもお互いの声が聞こえない。
だから私たちは、無理に喋る訳でもなく、それぞれ静かに夜空を見つめて花火を楽しんだ。

時間にしておよそ二十分。短いけれど、とても印象に残る花火だった。

「……終わっちゃったね」

消えゆく火花の余韻のなか、店長がみんなを見渡して言った。

「皆さん、これからもよろしくね。これ、毎年の恒例行事にしようかな」

「来年まで、スタッフが辞めずに続いてればいいですけどね」

相変わらず冷静な杉山くんのツッコミが入る。

「私は今のところお店を辞める予定はないですから、予定が合えば来ますよ〜」 と、水谷さんも微笑む。
私も心から「とても楽しかったです」と応えた。

まだお腹に残っていた軽食をつまみながら、しばらくの間、余韻に浸るように雑談を交わす。

街の喧騒が少し落ち着いた頃、みんなで後片付けが始まった。

「私も片付けますよ」 と私が一声かけたが、店長は首を横に振った。

「わざわざ来てもらったからね。それに女性たちは早く帰ったほうが良いと思うし」

その言葉に甘えさせてもらうことにして、私と水谷さんは、店長と杉山さんにお礼と挨拶を済ませ、一足先に倉庫の屋上を後にした。

駅へと向かう帰り道、水谷さんが並んで歩きながら私を振り返った。

「川嶋さん、今日は一日ありがとう。とっても楽しかったです」

「私もです……。本当は、ずっと水谷さんと出掛けてみたかったんですけど、なかなか自分からは言いづらくて」

水谷さんは驚いたように目を丸くした後、すぐにいつもの温かい笑顔を浮かべた。

「そうなの? これからはいつでも、遠慮なく誘ってくれていいのよ〜。私は川嶋さんと一緒だといつも楽しいもの」

「はい! ありがとうございます。では、また職場で」

また職場で、と言い合って、私たちはそれぞれの帰路についた。

(楽しかったな、本当に)

ちょっとした幸福感を感じつつ、私は、もう花火の光も見えない暗い夜空を見上げ、駅へと歩み進めた。


昨年の花火大会の話はこちら

404 NOT FOUND | 凪月桐 site

特別編 昔の私へ、今の私より

ネットで調べ物をしていた時だった。検索結果に出てきた記事を何気なく開くと、そこにはこんなことが書かれていた。

「昔の自分へ手紙を書いてみましょう」

過去の自分に向けて手紙を書くことで、自分がどれだけ前に進めたのか分かるのだという。

記事を書いた人は、それをきっかけに変わることができたと綴っていた。
少しスピリチュアルな話にも聞こえる。けれど、なぜか気になった。

未来の自分へ向けた手紙や日記なら見たことがある。
でも、昔の自分へ手紙を書くという発想はなかった。

私はスマホで毎日日記を書いている。

その日の出来事や感じたことを残すことはあっても、過去の自分に向けて言葉を書いたことはない。

「やってみようかな」

届くことはないけれど、届いてほしい。
そんなことを思った。

時計を見ると、夜の九時を過ぎていた。
仕事から帰り、夕食も済ませた後の静かな時間だった。

手紙用の便箋はない。
私は引き出しから少し大きめのメモ帳を取り出し、一枚めくった。

ペンを持ち、しばらく考える。

そして、ゆっくりと書き始めた。


『昔の私へ』

その一行を書いただけで、胸の奥が少しだけざわついた。

今は暗闇の中にいるかもしれない。
先のことなんて何も見えなくて、不安ばかりかもしれない。

でもね。
あれから、私は少しだけ前を向けるようになったよ。

何か特別なことがあったわけじゃない。
今、とても幸せとは言えないかもしれない。

小さな挑戦をして、小さな失敗をして。
それでもまた挑戦して。

そんなことを繰り返していたら、気づけば少しだけ景色が変わっていた。
暗くて光のない世界の中で、ほんの少しだけ光が見えた日があった。

あの日、私はその光に手を伸ばした。

昼間みたいな明るさじゃない。
それでも私にとっては十分だった。

誰かがそっと手を取ってくれたような、そんな温かい感覚を今でも覚えている。

だから大丈夫。

うまくいかない日があってもいい。
立ち止まる日があってもいい。
少しずつでいいから顔を上げてみて。

優しい言葉や、誰かの親切。

ありがとうと伝えた時の温かさ。

そんなものを感じられる日が、きっと来るから。
前を向いて歩いていってほしい。

今の私より。


書き終えた時には、机の上に何枚もの紙が広がっていた。
途中で何度も書き直したせいで、気づけば七枚以上使っていた。

「今度はちゃんと便箋を買おうかな」

そんなことを思いながら紙を見つめる。

そして、ふと気づいた。
過去の自分にこんな言葉を書けるくらいには、私は変われたのだと。

もちろん、まだ完璧じゃない。

悩むこともあるし、不安になる日もある。
それでも、あの頃の自分に伝えたいことがある。
そう思えるくらいには前へ進めたのかもしれない。

時計を見ると、もう十時半だった。

書いている間、何度も昔の記憶を思い出した。
少し疲れたけれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。

私は机の上を片付けて立ち上がる。
寝る支度をして、明日の準備も済ませる。

明日も仕事の日だ。

ベッドに横になり、部屋の灯りを消した。

おやすみなさい。
いい夢が見られますように。