1巻 昔の私へ、今の私より 川嶋夏希シリーズ 「過去編」 前編

あらすじ

明日なんて来なければいい‥‥。

35歳の川嶋夏希は、営業職と派遣社員で鬱病と挫折を経験し、社会の歯車からこぼれ落ちていた。

店長や仲間に支えられ、品物に宿る想いや人との関わりのある仕事に触れる中で、彼女は自分らしい「生きるペース」を取り戻していく。

この物語のテーマは『日常の中で、少し前向きになれること』

一度立ち止まった女性、川嶋夏希が、働く日々を通じて再び歩き出すまでを描く、優しくて力強い再生の物語。

※エピソード0として書かれている過去編、川嶋夏希の日々の日常やホビーショップで働く日常編がございます。

短編・連作小説としてnoteにて投稿していたお話を微修正し、まとめた作品です。マガジンにて、気になるお話からもご覧いただけます。


序章 友人との再会

休日の午前中、私は少し早めに家を出た。
吐く息が白く、マフラーの中の温もりが心地いい。
「4年ぶりに会うんだな……」
駅へ向かう道を歩きながら、胸の奥が少しそわそわしていた。

大学時代の友人、美香。
卒業してからも何度か会っていたけれど、仕事や生活のリズムが合わなくなり、私も精神的に辛かった時期もあり気づけば何年も経っていた。
最後に会ったのは、美香の結婚式。
そのときはまだ赤ちゃんはいなかったから、今日初めて会うことになる。

約束のファミレスに着くと、美香が気づき、手を振ってくれた。
「夏希ー!」
その隣には小さなベビーカー。
中には、ふっくらした頬の赤ちゃんがちょこんと座っていた。

「美香!久しぶり。わぁ……赤ちゃん! 可愛いね」
「でしょ? 1歳になったの。女の子で、名前は凛」
美香が笑うと、娘もつられて声を上げて笑った。
その柔らかな空気に、寒さで強ばっていた指先が少しほぐれていく。

ファミレスのメニューを見ると、クリスマス限定のメニューが増えていた。
メニューを開きながら、私たちは昔のように自然に話し始めた。

「高校のとき、よくここで勉強してたよね」
「懐かしいね。あの頃はテスト前とか集まってさ」
「夏希はいつもノートまとめてくれてたなぁ」
「そうだったっけ?」

「私、今日久しぶりにこっちに来たよ」
「そうなの? なら今住んでるところの話とか教えてほしいな」
「もちろん!」

笑いながら、ドリンクバーで持ってきたお茶を口に運ぶ。

美香は結婚して5年。夫は同じ地元の人で、今は近くで働いているという。
「最近は育児と家事でいっぱいいっぱいだけど、でもね、やっぱり子供がいると毎日が違うんだよね。大変だけど楽しいよ」
そう言って娘の髪を撫でる美香の横顔が、少し大人びて見えた。

その姿を見て、胸の奥がじんわりと温かくなる。
同時に、ほんの少しだけ寂しさもあった。
(私と同じ歳なのに、もうお母さんなんだな……)
結婚式のときのドレス姿も眩しかったけど、
今は母親という新しい顔が、とてもまぶしい。

「夏希は職場、どう?」
「最初は大変だったよ。もちろん今もまだ学ぶことはいろいろあって。周りもいい人達だから頑張れてるところもあるかな。みんな優しいから」
「そっか。夏希が大変だったのはLINEで聞いてたけど、それなら良かったわ。職場にはいい人とかいないの?」
「いや、そういう意味でのいい人はいないかな。年も離れてるし」
「でも、大人になったら年齢なんて関係ないと思うけどな」

美香はお水を飲みながら、少し考えるように言った。
その穏やかな仕草に、昔の彼女のままの優しさを感じる。

確かにそうかもしれない。
けれど私には、まだその感覚がつかめていない気がして。
今の自分の年齢で、そんな余裕がないことも、もちろん知っている。

美香が話題を変えてくれて、また別の話になり、その話題で笑い合う。
こうして話している時間が心地いい。
気づけば2時間以上が経っていた。

「この子も大きくなってきたら会いやすくなると思うし、また会おうね」と美香。
「凛も挨拶してね!」
「ばいばい」
凛ちゃんが笑って手を振ってくれた。

その声に、自然と笑顔がこぼれる。

外に出ると、すっかり日が暮れていた。
街の並木には灯りがともり、イルミネーションがきらきらと瞬いている。
カップルや家族連れが写真を撮っていて、街全体が少しだけ浮き立って見えた。

綺麗だな、と思う。
でも、ふと胸の奥に静かな寂しさが滲んだ。
(ひとりで見るイルミネーションって、少し切ないな……)

駅までの道を歩きながら、
冬の冷たい風と光のきらめきが、少しだけ胸に沁みた。
寂しさの奥に、温かい余韻が残っている。

「凛ちゃん、可愛かったな。美香ともまた会いたいな」
大学時代に歩いていた街並みの中、小さく呟いた。

光の粒がゆらゆらと揺れて、
その一瞬が、心の奥にやさしく焼きついた。


「私には私のペースがある」

友人と会った日の夜、自宅でふと過去の自分を思い出していた。
私にも、恋愛をしていた時期があったな、と。

社会人になりたての頃。データ入力の仕事をしていた時代。
周りは女性が多くて、昼休みはいつも恋愛や結婚の話題で盛り上がっていた。
私は聞き役で笑っていたけれど、そんな私に「今度合コンあるんだけど、一緒に行こうよ」と声がかかることもあった。

正直、合コンは好きじゃなかった。人見知りの私は初対面の人と話すだけで緊張する。
でも「せっかくだし」「一回くらいは」という同僚たちの言葉に流されて、何度か顔を出した。

ある時、数回会った一人の男性に「付き合ってください」と言われたことがあった。
驚いた。もちろん何度か会っていたからそういうことだとも知っている。でも好意を持たれる事が初めてだった。
私はそのうち飽きて断られるだろうと思っていたから。
相手は穏やかで真面目そうな人だったし、私は断る理由も見つからなかった。
「はい」と答えたのは、好きだからじゃなく、断る勇気がなかったから。

けれど、そのあとがいけなかった。
一緒に出かけても、心がついていかなかった。
笑わなきゃ、楽しそうに見せなきゃと自分に言い聞かせながら過ごすデートは、正直、息苦しかった。
相手は優しくしてくれるのに、私の心は会ううちに少しずつ冷めていった。
「どうして好きになれないんだろう」と自分を責めていた。

そして何度かデートを重ねたとある日。
別れ際に彼がそっと手を取って、自然に顔を近づけてきた時。
唇が触れた瞬間、身体が拒否するように固まってしまった。
別に今までだってキスは何度かしたことはあった。
正直あまり好きではなかったけど、そういうものだと思っていたのかもしれない。
でも、その日は嫌だと思った。

「ごめんなさい…今日は帰ります」
そうして私はそのまま逃げた。

それから数日後、私は彼に電話で謝り、短い交際は終わった。
彼は少しの沈黙のあとで「わかりました」とだけ言った。
責めることも、理由を聞くこともなく。
その静かな返事がかえって胸に刺さって、通話を切ったあと、私はスマホを握りしめたまま泣いてしまった。
どうして私は「ごめんなさい」しか言えなかったんだろう、と。

あの頃は、自分の気持ちをうまく言葉にできなかった。
「悪い人じゃないのに」という思いと、「無理だ」という気持ちがいつもせめぎ合っていた。
気を使いすぎて疲れていたのかもしれない。

その出来事から数年後、周りが結婚していくのを見て焦った私は、周りからの勧めで、婚活を試したこともある。
といっても婚活アプリに登録して、プロフィールを埋めるもの。
何人かとメッセージのやり取りをして実際に会う。

カフェで向かい合って話す。それだけなのに疲れてしまう。
知らない人と話すだけで私にはハードルが高かったし、以前の人を思い出してしまってあの時の気持ちを思い出してしまう。

私は相づちを打ちながら、心のどこかで「違う」と感じてしまった。
会った人、全員をそう感じてしまっていた。
私は心を閉ざしてしまっていたのかもしれない。

「私、変なのかな」
そう悩んだことも何度もあった。
私には付き合うとか結婚は無理なのかもしれない。
それからはデータ入力の仕事にひたすら取り組んでいたことを思い出す。

だけど今なら、少し違う言葉をかけられる。
「合わないものは合わないんだよ。恋愛や結婚だけが全てじゃないし」

一人でいるのは、少し寂しい。
友人の赤ちゃんを抱っこしていると、心の奥がきゅっとする。
私もあんなふうに誰かと人生を重ねられたら……と願う気持ちは、確かにある。

でも今の私は、一人で暮らすこの生活が嫌いなわけじゃない。
好きな時間に起きて、好きなものを食べて、疲れたらすぐ横になれる。
自分のペースを守れる安心感もまた、手放せない。

あの頃は、無理をして「恋愛しなきゃ」「結婚しなきゃ」と背伸びしていた。
けれど今は、経験しておいて良かったなと思っている。
過去の失敗も、苦しかった思いも、今の自分に必要なことだったのだろう。

窓の外に流れる夜景を見ながら、私はひとつ深呼吸をした。
「私には私のペースがある、今はそれで大丈夫」
そう思えるようになっただけでも、あの頃の私より少し前に進めている気がした。

こういう時は、私はお湯を沸かす準備をする。
ティーバッグからお気に入りの紅茶を選んで、カップにゆっくりと注ぐ。
立ち上る湯気とやわらかな香りに包まれると、胸の中に渦巻いていた影が少しずつほどけていく。
温かい紅茶をそっと口に含むと、胸の奥に残っていた重さが静かに溶けていった。


過去編1 昔の私 

美香に「好きな人や気になる人は?」と聞かれてから、一週間。

大学時代の友人である美香は、今では一歳の娘の母親になっていた。その横顔を見てから、私はずっと昔のことを思い出している。

短期大学を卒業してすぐ、私は事務職の正社員になった。
けれど、その職場は私には合わなかった。

一般事務として採用されたはずなのに、研修後に営業へ異動となったからだ。

あの頃の私は、人見知りで、友人も少なく、浅く関わる程度。
なぜ営業なのかと胸の中で問い続けた。理由は単純だった。

その時期に営業の人が数人辞め、人手が足りなかったのだろう。職場ではよくある話だと思う。
私は不器用ながらも、一生懸命に頑張ったつもりだった。
でも限界はある。

最初は優しかった先輩も、半年が過ぎた頃には表情が固くなり、私自身もあまり成長できていないのを感じていた。

気づけば孤立し、ミスは増え、謝ることにも慣れてしまっていて、残業も当たり前になっていた。

上司からは残業ばかりは困ると小言を言われることもあった。そして私はまた頭を下げる。その繰り返し。

それが当たり前の日常になった頃。ある日、いつの様に仕事へ向かおうとした朝、足が動かなかった。

胃が痛く、食欲もない。吐き気さえある。風邪かと思ったが風邪ではない。その日から、私は職場へ行けなくなった。

自分の症状を調べ、私は精神科の病院へ向かう。診断は「鬱病」だった。

しばらくは薬を飲み、休職になったがこれ以上は難しいと私は思い、三ヶ月後に退職した。

その後も病院に通い、自宅で静かに過ごした。

少しずつ回復し始めた頃、私は考えた。もう正社員には戻れない。また知らない部署に飛ばされるかもしれない。

悩んだ末、派遣社員としてデータ入力の仕事を選んだ。
理由は人との関わりが少ないから。

派遣の仕事は転勤もあったが、慣れてきた頃には移動もなくなり、気づけば同じ職場で六年。私はいつの間にかベテランになっていた。

そんなある日、上司が変わった。

その上司は、私を嫌っているのだろうと思う行動が日に日に増えていく。

なぜ嫌われているのか分からない。正確なのかと言われれば仕方のないこと。実際私はコミュニケーションも取れず浮いていた。

私はただ入力を続けるだけ。所詮は派遣社員なのだから。
それでも仕事はきちんと続けていた。

けれど、訂正や仕事の追加が増え、圧を感じる日々が増えていった。

半年ほど経った頃には、また周囲の視線まで気になるようになっていた。
夜眠っても寝た気がしない。朝起きても体が重い。
頭痛薬を飲んでも痛みは消えない。
資料を見るだけで吐き気がした。

そしてまた、私は出勤できなくなった。

派遣会社に相談すると、なぜもっと早く言わなかったのかと言われた。
定期連絡はしていたはずなのに。
メールや電話でのやり取りだけでは伝わらなかったのだろう。

精神科の診断は再び鬱病。
気づけば私は三十五歳になっていた。

派遣会社は次の仕事を提案してくれた。
けれど、十年近く入力しかしてこなかった私は、何もできないと痛感した。

もう入力の仕事に戻る気力はなかった。なら、自分には何ができるのだろう。

実家に戻った私は、家にこもりがちになった。

幸せそうな人を見ると胸がざわつき、外へ出るのもつらかった。

そして、私は顔も知らない「あの人」に出会うことになる。


過去編2 あの人との出会い

全てが嫌になっていた。幸せな人は見たくない。両親がいる実家にもいたくない。でも、一人暮らしをしていけるお金もない。私にできる仕事も見つからない。

何もしたくない。気づけば「明日なんて来なければいい」と思うことが増えた。でも自分から命を投げ出すことは出来なかった。そこはチキンなのだ、私は。

無になりながらも、自分に何が出来るのかをネットで探す日々。

電車に乗り、ハローワークにも通った。失業保険を貰うためだ。

相談員と事務的な会話をする。

「こちらはどうでしょう?」

紹介されたのは一般事務。仕事を探さないと失業保険は貰えない。面接だけの職場。すでに用意してあった履歴書と職務経歴書を、面接の日に持っていくことになった。

明日なんて来なければいいと思っているのに、そういうことだけは現実的にこなしてしまう自分が嫌になる。

そして面接の日。季節は秋。散歩にはちょうどいい季節だった。

行きたくない気持ちもあったが、私は面接の職場に向かった。荷物を再確認し、かなり早い時間だが家を出る。到着予定時間より一時間早く着いた。

理由は、また気持ち悪くなるかもしれない。私には休む時間が必要だと思った。

まずは職場の場所を確認し、近くの公園の木のベンチに座った。

外はそこまで寒くないのに、ベンチが少しひんやり感じた。

なんで私はこんなに早く家を出たんだろう。別に行きたい会社でもないのに。失業保険がもらいたいから面接に行くだけなのに。自己PRとか特にアピールするところもないな。

その後は何も考えたくなくて、ただベンチに座っていた。

そして時間が近くなり、お手洗いを済ませた私は面接に向かった。

大丈夫…大丈夫……と自分に言い聞かせる。

面接官は女性が一人。履歴書と職務経歴書を渡した。そして面接が始まる。

志望動機など様々な質問を聞かれたが、その時きちんと答えられのかは私の記憶にはない。その女性が、過去の上司の女性に見えたからだ。

頭がふらふらする。あまり記憶がないまま出た私は、また公園に戻り、あのベンチに座った。

気持ち悪い。

やっぱり私はもうダメなのかもしれない。そう思った。

どのくらいの間そうしていたのだろう。その時、声をかけられた。

「大丈夫? 顔色かなり悪そうだけど」

男の人の声がした。

はっきりしていて聞きやすい声の人だという印象は残っているが、帽子をかぶっていたので顔までは覚えていない。

その時の自分が何と答えたのかも覚えていない。帽子の男性はペットボトルの水を買ってきて私に渡してくれた。

「とりあえずこれ飲んで、深呼吸してみて」

その人は、座っている私から少し離れた場所で様子を見ていた。

しばらくして男の人はいなくなった。

私は水を飲んで休んだからか、少し落ち着いてきた。どのくらいの時間が経過したのかは分からない。

その時、帽子の男の人が戻ってきた。

「これ、食べられる?」

ドラッグストアで売っている栄養ゼリー飲料とコンビニのカステラだった。

「ありがとうございます。食べてみます」と私。

まずはゼリー飲料から。「……。」ほんのりとりんごの味がして優しい味がした。

普段は栄養ゼリーの味くらいにしか思わないのに、その飲み物がとても美味しく感じた。

「大丈夫?飲めそう?」

「はい、美味しいです」

「それならよかった。カステラも食べてみる?」

「はい」

カステラも一口食べてみる。甘くてふわふわしていて、とても美味しく感じた。
食べ物をこんなに美味しいと思ったのは久しぶりだった気がした。

「カステラも美味しいです…。」

「よかった。とりあえず、大丈夫そうでよかったよ」

「あの、ありがとうございます」

「それ、全部食べていいからね。……おっと、もうこんな時間だ。それじゃ俺はこれで」

「あ、あの…お礼を」

気づけば、帽子の男性はいなくなっていた。

男性がいなくなった後もカステラを食べ続ける。

気づけば自然と目から涙が流れていた。そしてすこしだけ暖かい気持ちになった。

その出会いが、少しだけ私に勇気をくれた気がした。


過去編3 小さなありがとう

その男性と出会ったあと、私は少しずつ「頑張ってみよう」と思うようになった。

あの時の面接は、当然ながら落選した。

それでも、ハローワークの相談員の方と話し合いながら、病院にも通いながら、少しずつ就活を続けていった。

そんな中で、相談員の方から「セミナーや職業訓練はどうですか」と勧められた。

グループワークが苦手な私は、まずは一日だけのセミナーなら……と思い、何度か参加してみた。

そこでは参加者とのやり取りもあったが、その場限りなのでなんとかなった。

そして、ある日のセミナーの帰り道のこと。

「きゃ…!」

驚いた声が聞こえた。声の方に目を向けると、キャリーカートを引いていたおばあさんの荷物が、突然バラバラと道に散らばった。

おそらく、スーパーの帰りなのだろう。

野菜や果物が道端に転がっていく。

幸い、車や人通りも多くない道だった。

私は、気がつけば走り寄って散らばった荷物を拾い、おばあさんに手渡していた。

「まあ、ありがとうね」

「いえ」

私は落ちていたものを全て拾い終い、おばあさんはキャリーカートに収めた。

「これで全部ですか?」「ええ、大丈夫だと思うわ。自転車が急に通ったものだから、びっくりしてしまってねぇ」

「お怪我は?」

「大丈夫よ。本当に助かったわ。ありがとう」

そう言うと、おばあさんはキャリーカートからひとつのお菓子を取り出した。

スーパーでよく見かける、あんこのお饅頭だった。

「これ、よかったらどうぞ」

「え、でも…」

「いいから受け取って」

「あ、はい。ありがとうございます」

おばあさんは会釈し、キャリーカートを押してゆっくり歩き出した。

私はお饅頭を鞄にしまい、同じ道を歩き出す。

ありがとうって言われた。ふと、その言葉を反芻してしまう。

もしかしたら私はおばあさんの役に立てたのだろうか。気がつけば走って荷物を拾っていただけなのに。お饅頭を貰えるほどの何かをしたつもりはなかった。

ありがとう…。少しだけ暖かい気持ちになった。

前までは幸せな人を見ただけで嫌な気持ちになっていた自分が嫌いだった。今もまだ悲しい気持ちになることもある。みんな幸せそうなのに、私は…と。

でもさっきのおばあさんとのやりとりは少しだけ違う気がした。少しだけ、役に立てたのかな。私もあの人のように。


過去編4 片付けの先にあった小さな出会い

お婆さんとの出来事から数週間が過ぎた。

私はまだ就職活動をしている。失業保険はもらえているものの、今後のことを考えると不安が募り、私は部屋の掃除をすることにした。断捨離をするためだ。

数日かけて部屋を片づけ、必要なものといらないものを分けていった。その中で、お金になりそうなものを数点取り分けた。昔の携帯ゲーム機、大学時代に使っていたバッグやお財布、アクセサリー、グッズなどだ。

ネットで、家から行ける範囲で何でも買い取ってくれそうなお店を探し、そこへ向かった。

普段行かない場所なので、地図アプリを見て確認しながら向かう。通りの中にある買取専門店としては小さめな店舗。所謂、ブランド品買い取りますみたいな雰囲気ではなく、下町のような雰囲気に感じた。

そして私は入店した。

「いらっしゃいませ」

背の高い声が大きめの男性店員が声をかけてくれる。私はその男性の元へ、不安ながらに歩いていく。

「あ、あの……買取ができるとネットで見かけて」

「はい、もちろん承ってますよ。こちらにお品物お願いします」

私はカゴに査定をお願いする商品を入れていく。

「これで全部です」

「ありがとうございます。ではまず、こちらにご記入お願いします」

「はい」

私が用紙の記入をしている間、男性店員は商品を一つひとつ見つめていた。

いくらになるのだろう。そう思いながら、私は用紙の記入を進める。

「終わりました」

「ありがとうございます。では、30分以降にまたいらしてください」

「わかりました」

店を出るとお腹が空いたなと時計を見た。13時20分。カフェなどの外食は流石に控えようと思った。少しでも節約しないと……。

コンビニでおにぎりとパンを買い、歩きながら見つけた公園のベンチで食べることにした。

公園なんて、なんだか懐かしい。最近は来ることもなかった。

少し肌寒かったが、日差しは暖かく、コンビニの簡単なご飯でも妙においしく感じた。

気づけば30分が過ぎ、私はお店へ戻った。

先ほどの男性店員がレジで会計の対応をしていた。

「ありがとうございました。またお待ちしております。あ、先ほどの方ですね、お待ちしてました」

ハキハキとした声が続く。そして査定額の用紙を見せてくれた。

「査定額はこちらですが……いかがですか?」

すべて合わせて4,000円。

高いのか安いのか、正直よく分からない。もともと処分するか迷っていたものだし、十分だと思った。

中でもお財布が一番高く値段がついていた。昔、福袋に入っていたものだ。色が微妙で一度も使わなかった財布。少しでも足しになるなら、まあいいか。

「お願いします」

「ありがとうございました」

店員はふと、私に声をかけてきた。

「あ、買取とは関係ないんですけど」

「?」私は首を傾げる。

「その時計、すごく使い込んでますね。相場としてはそこまで高い金額ではないですけど……大事にされてきたんだなって。これからも大事にしてくださいね。余計なことだったらすいません」

「あ、いえ。ありがとうございます」

私は手首の時計を見た。この時計は、祖母が母の20歳のときに贈ったものだと聞いている。そして母は、私が20歳になったときにこの時計をくれた。それ以来ずっと身につけてきた。

(買取のプロって、こういうところまで分かるんだ)そんなことを思った。

お金を受け取ったあと、店を出る前にふと店内を見渡した。

ほかにどんなものが置いてあるのだろう。自宅に売れそうなものはまだあるだろうか。

広い店ではないが、玩具からガラスケースのブランド品まで、さまざまな商品が並んでいた。こういうお店、今まで来たことなかったかもしれない。

見回していると、壁に「従業員募集中」と書かれた張り紙が目に入った。

このご時世に、マジックで書かれたシンプルな手書き。ちょっと面白い。

短時間アルバイト、または正社員募集。未経験大歓迎。学生、主婦、フリーター大歓迎。土日祝できる人歓迎。時間や曜日は応相談。時給〇〇円〜。

その中の一文がふと目にとまる。

「買取に必要なのは、ちょっとした親切な心配り! 経験なんていらないよ」

ちょっとした親切、心配り……。

私はなんとなく、そのポスターの写真を撮った。そして私は、そのままお店の外へ出た。

接客なんて向いてないと自分が一番分かっているのに、どうして私は写真なんて撮ったんだろう。

ふと、あの帽子の男性やキャリーカートを引いていたお婆さんの姿が頭に浮かんだ。

そのまま私は、自宅へ向かった。


過去編5 一歩踏み出した日

買取をしてもらった日から、さらに10日が過ぎた。

以前応募していた事務系の書類選考は、二件とも不採用だった。面接まで進めた軽作業の仕事も、手応えはほとんどなかった。

複数人の面接や圧の強い面接官が相手だと、途端にうまく話せなくなる。今回も例外ではなく、頭が真っ白になり、言葉が詰まってしまった。

その日は平日の昼間。少しだけ窓を開けると、小学生たちが楽しそうに帰っていく姿が見えた。今日はあまり寒くないんだな。最近は家にこもってばかりだったので、外の空気を久しぶりに感じた気がした。

これからどうしようかな……。

ふとスマホを手に取り、10日前に撮った求人募集の写真を思い出した。

あの買取店の求人。まだ募集しているかどうかも分からない。

あ、メールアドレスも書いてある。電話よりメールのほうが気が楽だ。私は、募集状況を尋ねる文章を打ち始めた。

データ入力の仕事が長かったせいか、こういう定型文は手が覚えている。あとは送るだけ。

でも、指が震える。

あ……。

気づけば画面が暗くなり、スリープ画面に戻っていた。もう一度電源を入れ直す。

頑張れ、私。

震えた指が、偶然なのか必然なのか――気づけば、送信ボタンを押していた。

五分もしないうちに通知音が鳴った。返信が早い。

「この度は求人募集にお問い合わせいただきありがとうございます。まだ募集しております。つきましては面接をお願いしたく、ご都合のよい日程を教えてくださいませ。」

まだ募集してたんだ……。嬉しさと焦りが一気に込み上げた。

か、返事を返さないと。私はすぐに希望日と時間を送った。

今度は10分ほどで返信が返ってきた。

「では、明日の〇〇日17時にお待ちしております。履歴書と職務経歴書をご持参のうえ、店舗までお越しください。入店後、面接の予約をしているとお伝えくだされば対応いたします。」

こうしてやり取りは終わった。

明日か。思ったより早い。でも、考えすぎる前に行けるほうがいいのかもしれない。

履歴書と職務経歴書は日付を直してコピーすれば大丈夫だし、夕方なら十分間に合う。

ハローワークの相談員さんへの報告は、結果が出てからでいいか……。正直、最近落ち続けていて、相談に行くのもちょっと気が重くなっていた。

面接、誰がするんだろう。あの店員さんかな。

私はずっと事務系ばかりで探してきた。でもデータ入力はもうできないと思って一般事務に応募してきたし、同じ作業を繰り返す軽作業は、以前のトラウマが残っていてどうしても怖い。

積まれていくだけの作業が、頭にちらつく。あの時の光景を思い出すたび、胸の奥がきゅっとなる。

だから、販売なんて選択肢にはなかった。

そう思いつつ急がないとと思い、志望理由を考え始める。私は書類作成の作業を進めた。


過去編6 面接

そして面接当日。場所は分かっているので、少し早めに到着し、周辺を歩きながら落ち着くために深呼吸をした。

大丈夫、大丈夫……。

いざ入る直前、やっぱり「お客」として入るのではないことが妙に怖かった。

五分前。意を決して店内へ足を踏み入れる。

「いらっしゃいませ」

あの店員さんだ。私に気づいたようで、すぐに声をかけてくれた。

「川嶋さんですか?」

「はい、面接の予約を……」

「お待ちしてました。じゃあ杉山くん、あとはお願いね」

「はい、分かりました」

「では、こちらへどうぞ」

「はい」と返事をし、私は店員さんについて行く。奥のカーテンを抜けた先は細い廊下で、そのうちの一室に案内された。

蛍光灯の白い光がテーブルと椅子を照らしている。流し台の上には電気ポットが置かれていた。休憩室だろうか。

「お好きな席にどうぞ。荷物は椅子に置いちゃって大丈夫ですよ」

「あ、はい。ありがとうございます」

「改めて、店長の吉田です。よろしくお願いします」

「川嶋夏希です。よろしくお願いいたします」

そう返事をして、私は履歴書と職務経歴書を手渡した。

「ではまず自己紹介からお願いします」

声が少し震えていた気がしたが、いつも通り答えていた自己PRを話す。

「分かりました。では、志望動機をお願いします」

「はい」

昨日あれだけ考えていたはずなのに、急に頭が真っ白になった。

「あ、えっと……」

「ゆっくりで大丈夫ですよ」

「すみません、ありがとうございます」

呼吸を整え、私はゆっくりと言葉を紡いだ。

「私はずっと事務系で探していました。でもなかなか採用されず……。そんな時に、こちらの求人を見かけて、気になりまして」

「どんなところが気になったんですか?」

「“ちょっとした親切な心配り”という文が……」

「そうなんですね。ちなみに川嶋さんにとって、心配りとはどんなことだと思いますか?」

「えっと、ありがとうと言ってもらえること……でしょうか」

「なるほど」

店長さんの口元が少しだけ上がった気がした。

「うちのお店は、お客様から買取した商品を販売するお仕事です。小さなものから家具のような大きなものまで幅広いですね。アルバイトの方に出張買取まではお願いしませんが、それでも接客の機会は多いです。お客様に“また来たい”と思っていただくための心配りが、スタッフには必要になります。」

「川嶋さんは接客未経験のようですが、そのあたりは大丈夫そうですか?」

「採用いただけたら、一生懸命頑張ります。最初は迷惑をかけるかもしれませんが……本当に、一生懸命やります」

「分かりました。では次の質問です。川嶋さんは、誰かに心配りをしてありがとうと言われたことはありますか?」

「えっと、それは……」

視線が自然と下へ落ちた。その瞬間、以前のお婆さんのことを思い出し、その出来事をゆっくりと伝えた。

店長さんは焦らせず、時間をかけて聞いてくれた。他にもいくつか質問があり、面接は終わった。

面接後、店長さんとスタッフさんに挨拶をして店を出る。

外は薄暗く、風が冷たい。寒い……。

最初のほうは「頑張ります」しか言えなかった。販売も未経験、レジも触ったことがない。本当にできるのだろうか。

でも、きちんと話せた。店長さんの柔らかい笑顔を思い出す。そして、質問から逃げずに答えられた自分を、ほんの少しだけ誇らしく思った。

そういえば、退職理由を聞かれなかった。いつも必ず聞かれるものだと思っていたから、不思議だった。

冷たい風にあたりながら、私は自宅までの道をゆっくりと歩き始めた。


過去編7 面接のあとのこと

面接から6日後。「一週間以内にご連絡します」と言われていた面接。あまり考えないようにしようとしていたけれど、やっぱり落ち着かなかった。今までの面接の中で、一番うまく受け答えができた気がしていたから。

そんな時、スマホの通知音が鳴った。

あ……あのお店からだ。

私は小さく息を吸って、呼吸を整え、メールを開く。

この度は面接にお越しいただき、ありがとうございました。選考の結果、採用とさせていただくことになりました。初回出勤日につきまして、面接時に伺った日程で問題ないか、改めてご確認いただければ幸いです。

え、採用……!?

文字が目に飛び込んできて、しばらく動けなかった。指先がじんわり震える。嬉しさなのか、緊張なのか、自分でもよくわからない。

あ、返信しないと。

震える指で慎重にスマホを操作しながら、最後に「よろしくお願いいたします」と加え、もう一度誤字がないかを確認してから送信した。

受かった。受かったからには、面接で言った通り、本当に頑張らないと。

面接で何度も「一生懸命やります」と言ったんだから、嘘にはできない。

クビになるわけにはいかない。とりあえず……ハローワークの相談員の方に連絡を。電話をすると、今日は担当の相談員の方がいらっしゃるとのことで、私はそのままハローワークへ向かった。

相談員の方は驚いた顔をしていた。まあそうだよね。事務職を探していた私が、まさか接客業、それも買取の仕事を受けるとは思わなかっただろう。

「でも……よかったですね。川嶋さんなら、きっと続けられると思いますよ」

「ありがとうございます。頑張ります」

その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなった。

失業保険関連の手続きも済ませたが、また後日来ることになるらしい。

帰り道、少し遠回りして大きめの書店へ足を運んだ。接客についての本を探そうと思ったからだ。

ネット注文でもよかったけれど、手元に届くまで時間がかかる。少しでも早く読みたかった。

本屋に入ると、紙の匂いがふわっと広がった。私は電子書籍より紙の本の方が好きだ。

接客……接客……。棚を見ていると、途中で「前向きな考え方」の本が目に入った。

何ページかめくってみる。

前向きか……。私も、もう少しそうなれたらいいのに。でも今は、まだ怖い。また以前のように心が追い詰められてしまったらどうしよう、と。

それでも、今はその事を考えてはいけない気がすると、どこかで思っていた。

接客の本はたくさん並んでいた。お店の経営、販売士検定、コミュニケーション、接客の心構え……。いろいろ手に取って迷った末、「初めての販売」という読みやすそうな本を選んだ。

他に気になった本は写真に撮っておいた。後日、欲しくなったらネットで買えばいい。

買取についてはネットで調べるしかなさそうだ。ピンポイントな本は見つからなかった。

帰宅して身支度を終えると、さっそく本を開いた。

接客8大用語から始まっていて、文字も大きめで、挿絵もある。これなら最後まで読めそうだ。

勤務日まで、まだ一週間ある。なるべく頭に入れておきたい。

ノートも用意して、重要そうなところを書き写していく。勉強していれば、今は余計なことを考えずに済む。

……いつぶりだろう、こんなふうに前向きな準備をするのは。

以前、私は「明日なんて来なければいい」と思っていた。でも今、ほんの少しだけど、前へ進めている気がする。

この後、私はビジネスマナーや話し方の本も購入し、ひたすら勉強した。

結局3冊全ては読み終わらなかったけれど、働き始めてからも役に立つと思うから。

そして、当日の朝がやってくる。


過去編8 はじめての出勤

私は予定より早く家を出た。 電車が遅れる可能性もあったが、それよりも心配だったのは──

精神的な面で職場まで辿り着けるのかどうか。

最寄り駅に着くと、約30分早かった。 以前歩いたときに見かけたコンビニでお昼ご飯を買う。

さて、どうしようか。

季節は11月。午前9時。 風が冷たく、思っていたよりも寒い。 朝はコンビニ以外ほとんどお店が開いていないので、仕方なく公園へ向かった。

以前も座った木のベンチに腰掛ける。

うぅ、冷たい……。

15分前には着きたいし、あと10分くらいなら寒さも大丈夫だろう。

ノートを取り出し、接客の挨拶やマナーのページを開く。 頭では分かっている。でも、本当に声は出るのだろうか。

頭が真っ白にならないか、それが一番心配だった。 まずはクビにならないようにしないと。

がんばれ、がんばれ、自分。 採用が決まってから、やることはやってきたんだから。そう言い聞かせた。

「あ、時間だ。」

私は立ち上がり、職場へ向かった。きっちり15分前。 まだシャッターは閉まっている。 店長の吉田さんが来ると聞いていたが、まだ姿はない。

寒い……。

五分前になった頃、道を歩いてきた男性が声をかけてきた。

「おはよう、川嶋さん。早いですね。すいません、待たせてしまって。」

「い、いえ、大丈夫です。おはようございます。川嶋と申します。本日からよろしくお願いします。」

「はい、よろしくね。初日がんばろうか。」

「は、はい。よろしくお願いします。」

吉田さんがシャッターを開け、鍵を回す。 中に入り、手探りで電気をつけた。

「はい、どうぞ。」

「し、失礼します。」

少し古びているが、清潔に掃除されたグレーの廊下。 先には面接をした休憩室がある。

「じゃあ、荷物はこっちへ。スタッフのロッカーと休憩室ね。面接の場所、覚えてる?」

「はい、覚えてます。でも……緊張してて、ロッカーがあるの気づきませんでした。」

「そっか。でも今日からはここのスタッフだから少しずつ覚えていこうね。」

「はい。頑張ります。」

大きめの声で返事をした。接客には声が大事、とノートに書かれていたから。

「いい返事だね。じゃあこれ、エプロン。つけたら店内に来て。」

「わかりました。」

コートを脱ぎ、エプロンをつける。そして私は店内へ向かった。

まずは掃除から。 備品の場所を教わり、店内とトイレを掃除する。 店内にはおもちゃからガラスケースに入ったブランド品まで、さまざまな商品が並んでいる。

大物よりも、小物が多い印象だった。買取って家具やブランド品ばかりじゃないんだ……以前は緊張でそこまでは考えられなかったので、少し意外に思った。

吉田さんはパソコンを操作している。 開店準備もいろいろあるのだろう。

私はせめて、自分にできることだけでもやらないと。そう思って、掃除を続けた。

開店十分前。

「川嶋さん、お待たせ。開店前に、大事なことを説明するね。」

「はい。」

「販売職が初めてとのことで聞くけど、販売で大事なことって改めて何かな?」

「丁寧な接客で、また来たいと思っていただくことです。」

覚えた通りの言葉をそのまま伝える。

「そうだね。あとは、ここは買取もあるから、気遣いも必要だよね。」

「はい。」

「じゃあ今日は、レジや買取は僕がやるから見ててね。落ち着いたら質問していいから。質問することはすごく大事。」

「わかりました。」

「それともう一つ。川嶋さんが今日からできる仕事。お客様への気配りと声がけ。迷ってそうな方に声をかけたり、たくさん買ってくれた方の袋詰めをしたり、重そうな荷物の方を手伝ったりね。」

「はい。わかりました。頑張ります。」

「よし、じゃあ開店だ。午後からは杉山くんが来るから、余裕ができたらまた教えるね。」

自動ドアのスイッチを押す。

「よし、頑張ろう。」

開店の音が胸の奥で小さく響いた。こうして私の第一歩が始まった。


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