第11話 これからよろしくね
私の仕事が終わる時間帯、店長が声をかけてきた。
「川嶋さん、この前話した大学生の新しい子、昨日から入ったんだ。川嶋さんとは今日初めて会うと思うから、後で挨拶をしてほしいんだ。遅番メインだから、一緒に入るのは休日くらいかもしれないけど……これから仲良くしてあげてね」
「昨日からだったんですね。わかりました」
そうして交代の時間が近づき、私はカウンター周りの片付けに取りかかっていた。
そこへ、ドアが開く音がして顔を上げる。
「こんばんは、今日から入ります、中村 真です。よろしくお願いします」
眼鏡をかけた青年がお辞儀をする。
背が高く、話し方は落ち着いた感じの人だな。
「あ……川嶋です。よろしくお願いします」
私も軽く頭を下げる。
「じゃあ、2人とも軽く自己紹介を」
店長に促され、中村さんは20歳であること、以前は家庭教師をしていたことを話した。頭が良さそうなイメージだなと思いつつ、私は遅番の2人に挨拶を済ませる。
「では私はこれで、お先に失礼します」
「お疲れさまでした」
小さな声で返された挨拶が、思いのほか丁寧で、私は少し和んだ。
これからどんなふうになるのか。
どんな人なのかな。話しやすい人ならいいな。
心の中でほんの少しだけ、そんなことを思った。
あとがき
後輩が増えると「どんな子なんだろう」「どんな人なんだろう」
とつい気になりますよね。
人見知りならなおさら、相手がどんなタイプかで心の構えも変わってくる気がします。
でも、最初の挨拶が丁寧だったり、ちょっとした表情が柔らかかったりすると、「大丈夫かもしれない」と、安心の種が芽生えることがあります。
川嶋さんにとって、中村くんとの出会いもきっとその小さな種のひとつになるのだと思います。
第12話 新しいパン屋さん
仕事を終えて、駅へ向かう道を歩いていた。
夜でも空気はまだ熱気を残していて、蝉の声が遠くから聞こえてくる。
夏は、夜になりかける時間でもまだ明るい。
人の流れに合わせて歩いていると、前方で誰かがビラを配っていた。
近づいてみると、落ち着いた雰囲気の大人の女性が笑顔で差し出してくれる。
「よかったらどうぞ」
受け取った紙には、大きく
「Newオープン」
と書かれていた。
「あれ、ここ……」
記憶をたどる。
半年前まで、同じ場所には小さなパン屋があった。
駅の近くだったから、朝と仕事帰りにたまに覗いてはパンを買っていた。
それが閉店してしまい、気づけば空き店舗のままになっていたのだ。
そのお店は美味しかったので少し悲しかった。
「また、パン屋さんになるんだ……!」
ちょっと嬉しくなった。
ビラを見つめる。
写真には、焼き立てのクロワッサンや小さな丸パンが並んでいて、美味しそうだった。
「オープンは来週か……」
少し心が動く。
でも、こういう新しいお店は初日からきっと混むだろうな。
お客さんでいっぱいの中に入るのは、正直苦手だ。
並んでいる人たちの熱気に押されてしまいそうで、少し気後れしてしまう。
落ち着いた頃に行こうかな、そう思うのがいつもの私。
……でも、やっぱり気になる。
今度仕事帰りに、お店の前を覗いてみようか。
パンはほとんど残ってないかもしれないけど、どんな感じか気になるし。
それだけでも十分楽しめる気がする。
家までの道を歩きながら、少し足取りが軽くなった気がした。
あとがき
街に新しいお店ができるだけで、日常の景色が少し変わるなと感じる時があります。
「そのうち行ってみよう」
と思うだけでも、気持ちがほんの少し前向きになることがありますよね。
川嶋さんにとって、新しいパン屋さんはそんな小さな楽しみのひとつになりそうです。
第13話 オタクあるある
今日は土曜日。
午後になり、店長、杉山さん、私、中村さんの4人体制になった。
基本的に杉山さんが中村さんを教えている。
やっぱり杉山さんは教えるのが上手だな。
杉山さんから聞いた話だけど、中村さんはここが初バイトらしい。
日雇いバイトならあるけれど、接客は初めてだとか。
ふと横を見ると、中村さんが商品の箱を黙々と並べ替えていた。
眼鏡の奥の目は真剣そのもの。
まだ入ったばかりなのに、手際は悪くないなと思った。
「少しは慣れてきた?」
私がそう声をかけると、
「はい、なんとか。……でも、まだわからないことばっかりで」
「まあ、最初はそんなものだよ」
そう言ってから、私も自分の最初の頃を思い出す。
あれこれ聞きたくても、聞くのが下手で一人で悩んでしまっていたっけ。
やたらとメモをとって、家に帰ってノートにまとめていた気がする。
「中村さんは、普段は大学が終わってからここに来るんだよね?」
「そうですね」
「大変じゃない?」
「うーん……でも、好きなことに使うお金は欲しいんで」
「好きなこと?」
そこで中村さんの表情が変わった。
さっきまで落ち着いていた声が、少し弾む。
「僕、〇〇っていうRPGのアプリが好きで、今のは3年ほどやってるんですけど、どうしてもストーリー見たさに課金しちゃうんですよ。でもそのストーリーが本当に良くて〜」
そこからの早口は止まらなかった。
「そういえば、その名前……CMで見たことあるかも」
「おお、そうなんですね!」
と、また中村さんの話が盛り上がる。
私も前まではアプリゲームをよく遊んでいたけど、課金するほどではなかった。だから夢中になる気持ちはわかる気がした。
私にはよくわからない部分も多いけど、好きなことを語るときの彼はとても楽しそうだ。
オタクあるあるだね。
心の中でちょっと笑ってしまった。
「……あ、すみません。つい」
我に返ったように頭を下げる中村さん。
「いいよ。好きなことの話してると、つい熱が入るよね」
「はい……昔からそうで」
その素直な言い方に、少し和んだ。
すると杉山さんが口を挟む。
「まあ、仕事はきちんとできているし大丈夫そうだと思うよ。ただ、お客さんにそれはやらないようにね」
「わかりました。気をつけます」
まだ少し緊張していそうだけど、それでも真面目さと一生懸命さが伝わってきた。
いい人そうでよかった。
早く馴染めるといいね。
あとがき
新しく入った人が
「どんな人なのか」
って、ちょっとした会話の中で見えてくるものです。
特に、好きなことを話すときの顔は、その人らしさが一番出る瞬間。
普段は落ち着いた雰囲気でも、話題によって一気に表情が変わる。
そんなギャップのある中村さんに、川嶋さんも少し安心したのかもしれません。
裏表のなさそうな感じが伝わってきて、話しかけやすい後輩になりそうです。
第14話 花火大会行く?行かない?
夕方になり、店内が少し落ち着いた頃、店長が口を開いた。
「前にも話したけど、来週の土曜日は花火大会があるから店は夕方で閉めるよ」
「花火大会なのに閉めるんですか?」
と思わず首を傾げる。
売り上げになりそうな気がしたからだ。
杉山さんが答える。
「そう、最近は閉めることにしたんです。花火大会の日は人通りはあるけど、買っていくお客さんは少ないし。大会前に買取をお願いされても、お客さんが帰りに忘れちゃうことがあって。トラブルの元になるくらいなら閉めちゃった方がいいんですよ」
「へぇ……なるほど」
中村さんも
「そうなんですね」
と眼鏡を押し上げながらうなずいていた。
すると店長が笑いながら言った。
「でもさ、その分、仕事終わったら花火大会に行けるんだぞ?」
「うーん、そう言われても……」
私は苦笑する。
「人混みが苦手なんですよね、私」
「わかります。花火見るなら、家に帰ってゲームしたいです」
中村さんも同意してくれる。
「俺も疲れに行くのはちょっとな」
杉山さんも肩をすくめた。
「ここはインドアスタッフしかいないのか!」
と店長が冗談めかして声を上げる。
思わず少し笑ってしまった。
「花火はきれいだし、見たい気持ちはあるんですけどね。帰りのことを考えると……」
私は言葉を濁す。
「川嶋さんは去年は休みだったっけ?」
「はい、休みでしたけど行きませんでした」
その言葉をきっかけに、ふと子どもの頃の記憶がよみがえる。
浴衣姿の人であふれる駅前、屋台の明かり、夜空いっぱいに広がる大きな花。
あの頃はただ
「きれい!」
と純粋に楽しめた。
今は、帰りの混雑や体力のことを考えてしまう自分がいる。
「まあ、当日になって気が向いたら行けばいいさ」
「せっかくなら水谷さんにも聞いてみて、みんなで行くか!」
と店長が豪快に笑う。
「考えておきます」
そう答えると、杉山さんも中村さんもどこか迷っているような表情をしていた。
あとがき
花火大会は夏の風物詩ですが、人によっては楽しみでもあり、少し構えてしまうイベントでもありますよね。
土日勤務の人なら、なおさら体力や帰りの混雑を考えてしまうもの。
子どもの頃はただ「きれい!」と純粋に楽しめたけれど、大人になるといろんなことが頭をよぎります。
それでも誰かに誘われると「どうしようかな」とつい迷ってしまう。
その時間さえも、夏の花火の楽しみ方のひとつなのかもしれません。
第15話 花火大会
そして花火大会当日。
閉店作業を終えたタイミングで、店長が手を叩いた。
「よし!せっかくだから、みんなで屋上から花火を見よう!」
「屋上ですか?」
杉山さんが眉をひそめる。
「見えるかもしれないだろ?」
店長が少し自信ありげに笑う。
「……かも?」
思わずツッコミを入れる。
「見たことないですけど、方向的にはいけそうじゃない?」
「見えなかったらどうするんですか」
「じゃあその時は、ご飯会だな!」
「えぇ……」
私たちはそろって苦笑した。
「とりあえず方角くらいは調べますよ」
杉山さんがスマホを取り出す。
「お、杉山くん行く気満々?」
「違います。むしろそこまで考えてから誘ってくださいよ」
「大丈夫そうだな。あとは見えないと何とも言えないけどな」
店長の言葉に、半ばあきれながらもついていくことにした。
屋上に上がる前、水谷さんが
「今日は用事があって」
と残念そうに帰っていったが、
「夕方にまた寄るね」
と言って、お菓子を差し入れしてくれた。
屋上に出てみると、ひんやりとした夜風が吹き抜けた。
「まあ、わかってたけど……あんまり綺麗じゃないな」
店長が苦笑する。
「一応これでも、昨日ちょっと掃除したんだぞ」
「普段からやらないからですよ、店長」
杉山さんがすかさず突っ込む。
「まあ、屋上なんて滅多に用事ないからなぁ」
金属の手すり越しに、街の明かりが遠くまで広がって見えた。
腰を下ろして、みんなで持ち寄ったおにぎりやコンビニのサラダを広げる。
「こういうのも、まあいいじゃないですか」
私は口にした。
「確かに」
杉山さんもうなずく。
「まだ時間あるし」
と、中村さんはスマホを取り出してアプリを始めた。
「まあ勤務時間外だからな」
杉山さんが苦笑する。
やがて
「ドン」
と腹に響く音がして、夜空に光が弾けた。
屋上から見えるのは、建物の向こうに上がる花火の半分だけ。
でも、高く打ち上がった大輪の花は、思った以上に綺麗だった。
「小さいけど……来年も、ここでいいかもな」
店長のその言葉に、みんな少し笑ってうなずいた。
夏の夜風に揺られながら、半分だけの花火を、それでも十分に楽しんでいた。
あとがき
花火大会は夏の風物詩ですが、人によっては楽しみでもあり、少し構えてしまうイベントでもありますよね。
子どもの頃はただ
「きれい!」
と純粋に楽しめたけれど、大人になると帰りの混雑や体力のことを考えてしまう。
それでも、誰かと一緒に
「半分だけでもきれいだね」
と笑い合える時間があるなら、それだけで、十分な夏の思い出になるのかもしれません。
第16話 衣替え
朝、窓を開けた瞬間に感じた風が、少しだけやわらかくなっていた。
あんなに鳴いていた蝉の声も、今日は遠くでひとつ聞こえるだけ。
「やっと涼しくなってきたな。夏も終わりかな」
そう思いながら、カーテンを揺らす風を見つめる。
2週間前に屋上で見た花火の残像が、もう懐かしく感じる。
あの時、店長の軽口とか、杉山さんがぼそっと言った
「来年もいいかもな」
とか。
派手な思い出ではないけれど、なんとなく温かい。
休みの日。
「まだ暑い日も多いと思うけど、秋物も少し出しておかないとね」
よし、少し衣替えしよう。
布団も秋用のを干そう。温かい紅茶を飲み終わったら始めよう。
でも、急に暑くなるし半袖も残しておかないとね。
最近は秋が短いから。夏のあと急に冬になったりするし。
ほんと、体調には気をつけよう。
こうして私は途中休憩を挟みながら、少しずつ衣替えの作業を続けた。
夕方になると、窓の外が少し赤く染まっていく。
日が沈むのが早くなって、街のざわめきもどこか静かになってきた。
秋がもう、すぐそこまで来ている。
「来年も花火、見られるのかな」
なんとなくつぶやいて、ベランダの空を見上げた。
よく考えたら、最近は旅行にも行っていない。
夏っぽいことか。一応、花火大会も夏だよね。
あの夜よりも少し涼しい風が、頬をなでた。
「私、来年もここで働いてるのかな」
来年の自分を思い浮かべる。
少しだけ、未来がぼんやりと霞んで見えた。
そうして、私はまた、明日からの日々に戻っていく。
特別なことはなくても、こうして季節の移ろいを感じられるだけで、今は十分だと思えたそんな1日だった。
あとがき
夏の終わりって、ちょっと切ないけれど、どこか安心しますよね。
川嶋さんにとっても、派手な夏ではなかったかもしれませんが、静かに季節を見送る時間はきっと心を整えるひとときになっていると思います。
こういう何も起きない穏やかな終わり方も、休日らしいなと思います。
第17話 金木犀の香り
朝晩が涼しくなることが増えた。
最近、時間に少し余裕がある日は、いつもと違う道から出勤している。
といっても、ほんの5分ほどの遠回りだ。
その道の途中に、小さな学校がある。
校門のそばに並んだ金木犀の木が、今まさに満開を迎えていた。
通りかかるたびに、ふわっと甘い香りが風に乗って流れてくる。
思わず足を止めて深呼吸をすると、胸の奥がすっと落ち着いていく。
「この香りがする季節は、やっぱり好きだな」
午前の店内は落ち着いていた。
水谷さんと二人で、売れ残った買取品の整理をしている。
そんなことを思いながら、職場へと向かった。
改めて商品の状態を確認して、怪しいものは今後、店長と相談して価格の見直しをするためだ。
私は手を動かしながら、水谷さんに今朝のことを話してみた。
「最近、金木犀の香りが好きで、少しだけ寄り道して香りを楽しんでから出勤してるんです」
と私が言うと、水谷さんが手を止めて顔を上げた。
「金木犀の香り、いいわよね」
「学校のそばに木がたくさんあって、通るたびに癒やされてます」
「風に乗って香ってくる感じが、またいいのよね」
「そうなんですよ。秋らしくて好きです」
「あ、そういえばね」
と、水谷さんが少し思い出したように言った。
「最近、桂花茶(けいかちゃ)っていう金木犀のお茶を買ったの」
「桂花茶……名前は聞いたことあります。どんなお茶なんですか?」
「香りがね、すごくやさしいの。金木犀の香りが好きなら好きだと思うわ」
「そうなんですね。調べてみます!」
「あ、それならまだたくさんあるから、今度少し持ってくるわね〜」
「いいんですか!ありがとうございます。楽しみにしてます!」
水谷さんにはいつもいろいろいただいているから、今度お菓子でも持っていこうかな。ふと、そんなことを思った。
水谷さんと別れ、店長が出勤。
午後はお客様が続き、時間があっという間に過ぎていった。
「午後、忙しくて疲れたな」
ふとそうつぶやいて、帰りもまた同じ道を選ぶ。
風が頬にあたって、ほんのり金木犀の香りが混ざる。
昼間よりも控えめな香りなのに、それがかえって穏やかで、やさしく心に残った。
「桂花茶、どんな香りなんだろう」
そんなことを思いながら、私はゆっくりと帰り道を歩いた。
あとがき
金木犀の香りには、どこか懐かしさとやさしさがあります。
風に乗ってふっと香るたびに、季節の移ろいを感じますね。
水谷さんとの何気ない会話の中にも、小さな楽しみがあるのもいいなと、そんな時間を書いてみました。
次の休みには、川嶋さんが桂花茶を淹れている姿が浮かびます。
※桂花茶とは、乾燥させた金木犀の花を香りづけしたお茶のこと。
ふんわりと甘い香りが特徴で、中国や台湾などでは秋の定番として親しまれています。
第18話 桂花茶
水谷さんとシフトが重なる日。
私は、以前オープンしたパン屋さんで、クッキーとマドレーヌを買った。お店は駅から職場へ向かう途中にある。
オープンしてから、私は週に一度くらいのペースで通っている。
いつもはお昼用のパンを買うことが多いけれど、この日は水谷さんへのお礼として、お菓子を選んだ。
以前、一度だけ買ったことがあるクッキーとマドレーヌがとても美味しくて、
「これなら喜んでもらえるかも」
と思ったのだ。
出勤すると、水谷さんが笑顔で声をかけてきた。
「川嶋さん、この前のお茶です」
そう言って、5つ分のティーバッグ入りの桂花茶を差し出す。
「こんなにいいんですか?ありがとうございます、水谷さん」
私は今朝、お昼用のパンとは別に分けてもらったお菓子の袋を取り出した。
「桂花茶のお礼に」
と言いながら渡すと、水谷さんは少し驚いたように、嬉そうに笑った。
「えー、うれしい。ありがとう。ここのパン屋さん、気になってたのよ」
「そうなんですか? パンも美味しいので、今度買ってきますよ」
「あら、ありがとう〜。楽しみにしてるわ」
そんな他愛もないやりとりのあと、朝の業務が始まった。
その日の帰り道、私は自分の分のお菓子が入った袋と、水谷さんからいただいたお茶の袋をなんとなく眺めた。
金木犀の季節が終わる前に、ゆっくり味わおう。
「明日は休みだしね」
そんなことを思いながら、家へ帰った。
次の日。
朝は早めに目が覚めた。
洗濯や掃除を済ませて、テーブルに桂花茶の袋を置く。
袋を開けると、花びらの香りが広がる。
「いい香り……」
お湯を沸かしながら、その香りに癒やされる。
湯気が立ち始め、カップにお湯を注ぐと、金木犀の香りがふわりと広がった。
まるで通勤路で感じた秋の風の香りが、部屋の中に戻ってきたようだった。
ひと口飲むと、ほんのり甘く、体の奥からあたたかくなる。
「……おいしい」
自然と笑みがこぼれる。
テーブルの上には、昨日買ったパン屋さんのマドレーヌとクッキー。
桂花茶と一緒にいただく。
「このお茶、甘すぎなくてお菓子と合うなぁ」
しっとりとした甘さに、花の香りが重なって、なんだか贅沢な時間に思えた。
外では風が木々を揺らし、窓越しに秋の光が差し込んでいる。
「こんな朝も、いいな」
そうつぶやいて、もう一口お茶を飲んだ。
天気もいいし、午後は少し出かけようかな。どこがいいかな……。
そんなことを考えながら、季節の移ろいをゆっくりと感じていた。
あとがき
香りや味から季節を感じられるのは、いいですよね。
職場での小さなやりとりが、休日の心の支えになる。
そんなつながりもいいなと思いながら、川嶋さんの穏やかな休日を描きました。
ちなみに、パン屋さんのラスクは美味しくて、私も好きです。
第19話 寒い日の中華まん
朝から、どうにも調子が悪い日だった。
目覚ましの音で一度起きたのに、布団の中でうとうとしていたら、気づけばいつもより十五分も遅い。
「やばっ」
と声が出た。
慌てて顔を洗い、支度を始める。
お弁当を作る時間なんて当然なくて、急いで家を出た。
朝ごはんも、食パンを一枚頬張るだけ。
外に出ると、ひんやりとした空気が頬を刺した。
「もう少し厚着してくれば良かったな」
白い息がふわっと上がる。
季節が、確実に冬へ近づいているのを感じた。
駅に着くと、電光掲示板に
「電車遅延」
の文字。
タイミングが悪い日というのは、なぜか続くものだ。
結局、いつもより十五分遅い電車に乗ることになった。
混み合う車内で揺られながら、
「間に合いそうだけど……」
と小さくため息をつく。
なんとなく、今日一日が長くなりそうな予感がした。
店長は11時に来る予定。
それまでにできることを進めよう。
シャッターを上げ、照明をつけ、掃除をして、商品を並べ直す。
「こういう日に限って、忙しくなったりするんだよなあ」
そんなことを思いながら手を動かすうちに、少しずつ気持ちも落ち着いていった。
開店してしばらくして、大口の買取のお客様がご来店された。
「査定が終わり次第、ご連絡いたしますね」
と伝えて対応を進める。
店長が来る前に、できるだけ進めておこう。
仕分け作業をしながら、ふと考える。
「お昼、どうしようかな……」
お弁当はないし、コンビニだよね。
職場の近くには飲食店が数件あるけれど、どこも量が多くて値段も少し高い。結局いつも、お弁当か買ってくるかで済ませることが多い。
11時、店長が出勤。
挨拶と引き継ぎをして、2人で買取作業を進める。
店内業務は、私が中心に担当した。
休憩の時間になり、外へ出る。
思ったより風が冷たくて、肩をすくめた。
「お昼でも寒いな……」
徒歩7分ほどのコンビニへ向かう途中、街路樹の葉はほとんど落ちかけていた。秋が終わるころの空気は、どこか静かで、少し寂しい。
「せめて暖かいものを食べよう」
そう思いながら歩いた。
コンビニのポスターが目に留まる。
《中華まん 50円引き》
「中華まん……いいかも」
ガラス越しのケースに並んだ、ほかほかの中華まん。
肉まんもあんまんも美味しそうで、しばらく悩んだ末に、結局どちらも買うことにした。
中華ワンタンスープも一緒に購入する。
店に戻って、休憩室に入る。
スープをレンジで温めている間に手を洗う。
「いただきます」
と小さくつぶやく。
肉まんの包みを開けると、小麦の香りが鼻をくすぐった。
ひと口かじると、熱々の肉汁が口いっぱいに広がる。
「美味しい……」
外の冷たい空気を思い出すと、この温かさが余計にありがたく感じた。
中華スープをすすると、少しずつ体が温まっていく。
あんまんは思ったより甘すぎず、しっとりとしていて、食べ終えるころには自然と笑みがこぼれていた。
「久しぶりにコンビニの中華まん食べたな」
いつもはスーパーのを買って家で温めるけれど、またコンビニもいいかも。
寒い日のちょっとしたごちそうのように感じた。
休憩を終えて、店に戻る。
すると店長が声をかけてきた。
「お昼、ちゃんと食べた?」
「はい。久しぶりにコンビニ中華まんを食べました」
「いいね。寒くなるとあれ、食べたくなるよね」
「そうなんですよね」
たわいもない会話だけど、それが妙にあたたかく感じた。
あとがき
寒くなる季節には、温かいものが一番のごちそうですね。
朝のつまずきも、今回のようなちょっとした出来事で少しだけ気持ちがやわらぐ気がします。
普段食べないものを久しぶりに食べると、その味が時々印象に残ることもあります。
川嶋さんにとって、そんな小さな出来事が、日々を支える力になっていれば嬉しいです。
第20話 再会
午後になり、シフトは川嶋さんと杉山さん。
自動ドアが開き、お客様が入ってくる。
ベビーカーを押しながら、店内をゆっくり見て回るお父さん。
私は少し迷った。
声を掛けるべきか、それともそっと見守るべきか。
すると杉山さんが川嶋さんへ目配せをし、すっとお父さんの方へ歩み寄った。
「何かお探しですか?」
その瞬間、お父さんの目が丸くなる。
「あれ? もしかして杉山?」
「あ、やっぱり岡本だったか。久しぶりだな」
二人の間に、懐かしい空気が流れた。
「何年ぶりだ? 結婚式のあと、一度会ったのは覚えてる」
「三年前くらいかな?」
「子ども、産まれたのか」
「そう、今月で一歳になってさ。男の子。最近こっちに引っ越してきてさ」
川嶋さんはそれ以上は聞かないようにしようと、軽く笑って手元の作業を続けた。
五分ほどで杉山さんは戻ってきた。
「今落ち着いてますし、もう少し話してきても大丈夫ですよ」
「いや、今度また会えそうだから」
「そうですか」
川嶋さんはそれ以上聞かず、静かに見守る。
岡本さんは子供用のおもちゃを購入してくださった。
川嶋さんも一緒に頭を下げる。
「ありがとうございました。またお待ちしております」
岡本さんが帰った後、杉山さんが少し照れくさそうに話してくれた。
「昔の大学のサークルの友達で。ケンカとかじゃなく、普通に疎遠になってたんですけど、元気そうでよかったです」
川嶋さんは心の中で、小さくほっとした。
自分にとっても、昔の友達と再会する瞬間は、少し気負いがあった。
実際、昔の友達とは疎遠ばかりだ。
「そういえば、杉山さんの昔話って聞いたことなかったですね。こういうのって、あまり聞いていいのかわからなかったので」
「まあ確かに。僕も川嶋さんのこととか、聞きづらいですからね」
「距離感って、難しいですね」
「ですね」
今度、機会があれば聞いてみようかと思った。
杉山さんと岡本さんを見ていたら、昔の自分も、あんな風に友達と笑っていた時もあったなと懐かしくなった。
今後、人と人の間にある距離感が、少しずつ心地よく思える瞬間があるのだろうか。
この人になら話してもいいと思えるような人がいるのかな、とふと思った。
あとがき
今回は、人と人の距離感や、久しぶりに会う誰かの笑顔にふと温かさを感じる瞬間を描きました。
川嶋さんの視点で見ると、仕事中の杉山さんと、プライベートの杉山さんの違いが見えてきます。
普段は物腰柔らかく、仕事中は少し堅くなる。
そういう面を知ることも、日常の楽しさの一つだと思い、このお話を書きました。
20.5話 番外編 中村くん視点
僕がこの職場に入社して1ヶ月ほど。
休日の職場、午後の休憩時間。
僕はお昼を買いに裏口から外に出たとき、ガラス越しに少しだけ店内を覗いた。
川嶋さんは商品の整理をしながら、お客様とお話をしている。
落ち着いていて、必要なときにはさりげなくフォローしてくれる人。
女性だからかもしれないけれど、川嶋さんの存在だけで、店全体の空気が少し柔らかくなる気がする。
杉山さんはレジで接客中。
僕は基本、シフトの関係で杉山さんから教わることが多い。
笑顔が自然で、お客様との距離感も絶妙だ。
川嶋さんとは別の意味で、真面目さと気配りがにじみ出ている。
正社員ってやっぱり凄いな。
僕はその様子を見ながら、
「いつか自分もあんな風にできるようになりたい」
と思った。
店長はさっき奥で店頭の買取業務をしていた。
気さくで話しかけやすく、面接の時から良い印象だった。
いい意味でそこまで上司感がない。
少し雑なところは気になるけれど、個人的には店長と杉山さんの二人の距離感が好きだ。
足りないものを補い合っている感じがする。
水谷さんには時間や曜日の関係で会ったことはない。
でも時々お菓子と一言メモが置かれていて、そこにわざわざ僕の名前まで書かれていた。
きっと良い人なのだろう。
川嶋さんも
「楽しくてとても良い人」
と言っていた。
一度は会ってみたいと思っている。
僕も少しずつ、この空間に馴染んできた気がする。
「このお店って、ただ物を売るだけじゃないんだな」
人と人の距離感、空気のやり取り、笑顔の交わし方そんな細かいことが、この店の居心地を作っているのだと、しみじみ思った。
僕もここで、もっと頑張りたい。
そんなことを思った休日出勤の一日だった。
あとがき
今回の20.5話、何を書こうかと考えました。
考えた末、新人の中村くん視点でのお話にしました。
中村くん視点での川嶋さんや杉山さん、店長、水谷さん。
仕事の中での距離感や、人との関わり方や意識の仕方。
そんな細かいことを、新人の中村くん目線で描くことで、読者にもお店の温かさや居心地の良さを感じてもらえたら嬉しいです。
おまけ20話まで続けてみて思ったこと。
私は季節感を合わせるかでかなり迷いました。
制作している時期で多少ズレる事もありますが、日常シリーズなので出来れば合わせたいなと思うようになりました。
季節感を合わせた方が季節ネタなどを共感していただけるのではないかも思ったからです。
今後、今回のような番外編を混ぜたりなど、いろいろ試行錯誤しつつ、川嶋さんシリーズは続けていきたいと考えています。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
